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//June 12//

放課後。

俺と紅瀬さんは監督生室にいた。

文化祭実行委員の仕事が少しずつ具体化してきたのだ。

【征一郎】「準備期間はあと三ヶ月だ」

三ヶ月。

それが長いのか短いのかはわからない。

なにせ、この学校では初めて経験する文化祭なのだ。

【征一郎】「君たちの仕事は、主に書類作成や備品の在庫管理などだ」

【征一郎】「難しい内容ではないが、仕事量は少なくない」

【征一郎】「勉学に支障をきたさない程度に頑張ってくれ」

【孝平】「はい」

とはいえ、俺たちだけで本当に大丈夫なのだろうか。

かなり心配になってきた。

【征一郎】「いきなりこんなことを頼んで悪いな」

【征一郎】「役所や商店街への挨拶回りが多くて、そこまで手が回らないんだ」

【孝平】「え? そんなことまでやってるんですか?」

【征一郎】「もちろん」

【征一郎】「文化祭の成功には、地元の協力が必要不可欠だ」

【征一郎】「パンフレットに掲載する広告は、一つでも多い方がいい」

【瑛里華】「ちなみに私は、もう5つも広告取ってきたわ」

副会長はちょっと得意げだ。

【瑛里華】「そう言えば、『スーパーまつい』さんからも連絡があったのよね」

【瑛里華】「広告掲載と烏龍茶のペットボトル300本、バーター取引でどうかって」

【征一郎】「それはありがたいな」

【瑛里華】「さっそく契約書を届けておくわ」

二人は広告営業のようなことまで担当しているらしい。

実にマルチな活躍ぶりだ。

【孝平】「あれ?」

【孝平】「今日は、会長はどこに行ったんですか?」

【征一郎】「伊織は、理事会の方に交渉しに行ったんだろうな」

【孝平】「理事会……ですか」

【征一郎】「ああ」

【征一郎】「大きなことをやるには、それなりの許可が必要だ」

【征一郎】「自由な校風だからといって、何をしてもいいわけじゃない」

実感のこもった口調で東儀先輩は言う。

会長も副会長たちも、責任のある仕事をしているのだ。

とてもじゃないけど俺にはこなせそうにない。

【瑛里華】「本当なら、兄さんにもこっちの仕事手伝ってほしいのよね」

【瑛里華】「征一郎さんの方からもなんとか言ってくれない?」

【征一郎】「あまり期待はできんだろうな」

【征一郎】「あの男は、派手な仕事以外では戦力にならない」

【瑛里華】「はぁ~、それもそうね」

諦め顔の二人。

なんとなくうなずいてしまう俺。

【征一郎】「ところで、紅瀬」

【桐葉】「はい」

【征一郎】「念のために、携帯番号を教えてくれないか?」

【征一郎】「その方が急な時に連絡を取りやすい」

【桐葉】「ありません」

【征一郎】「なに?」

【桐葉】「持っていません」

【瑛里華】「えっ」

【孝平】「ええっ」

そういや、紅瀬さんが携帯を操作してるところは一度も見たことがない。

【征一郎】「持たない主義か?」

【桐葉】「必要がないだけ。触ったこともないわ」

【孝平】「嘘だろ?」

【桐葉】「嘘をついてどうするのよ」

【孝平】「メールとかするだろ。普通は」

【桐葉】「しないわ」

【孝平】「しないのかよ!」

【桐葉】「触ったことがないと言ったでしょう」

【孝平】「でも、不便じゃないか?」

【桐葉】「別に」

まるで興味がなさそうだ。

【孝平】「そうは言うけど、メールって便利だぞ」

俺は携帯を取り出し、メールボックスを開いた。

適当に文章を作成してから、送信ボタンを押す。

ちゃらちゃちゃーちゃらちゃちゃー♪

【瑛里華】「ひゃっ、私?」

メールの宛先は副会長。

いぶかしげな顔で、副会長は携帯を開いた。

【瑛里華】「えーとなになに?」

【瑛里華】「ランチは焼きそばですか? 歯に青ノリがついていますよ……?」

【瑛里華】「って嘘っ!!」

【孝平】「とまあこんな風に、言いにくいことも間接的に伝えることができる」

【瑛里華】「今日のランチは焼きそばじゃなくてドリアだったわよっ」

【孝平】「ただの例文だよ、例文」

【瑛里華】「もう、まぎらわしいことしないでよね」

【孝平】「はは、悪い」

【孝平】「どうだ? 便利だろ」

そう言うと、紅瀬さんは俺の携帯をちらりと見た。

【桐葉】「直接電話した方が早いわ」

【孝平】「そりゃそうなんだけどさ」

【征一郎】「まあ、持っていないならそれでも構わない」

【征一郎】「紅瀬への連絡は、支倉を経由することにしよう」

東儀先輩がその場をまとめた。

【征一郎】「ところで書類を作る時は、ここにあるパソコンを使ってくれ」

【征一郎】「紅瀬も、好きに使ってくれて構わないからな」

【桐葉】「使えません」

【征一郎】「なに?」

【桐葉】「触ったことありません」

【征一郎】「パソコンに?」

【桐葉】「はい」

携帯のみならず、パソコンもか。

紅瀬さん、とことんアナログ派だな。

【征一郎】「ふむ。そうか」

【征一郎】「まあ、支倉が教えてくれるから大丈夫だろう」

東儀先輩は同意を求めるように俺を見た。

どうやら丸投げする気らしい。

それから急遽、紅瀬さんのためのパソコン教室が開催された。

インストラクターは俺だ。

【孝平】「で、この絵に矢印を合わせて、もう一度、左を二回押してみて」

【桐葉】「……っ」

カチッ

……。

…………。

カチッ

【孝平】「ちょっと遅いな」

【桐葉】「さっきは速いと言ったわ」

【孝平】「さっきと今の中間ぐらいで頼む」

【桐葉】「では、貴方がやってみて」

【孝平】「おう、任せろ」

俺は素早くマウスを奪い取り、アイコンにカーソルを合わせた。

カチッ

カチッ

即座にワープロソフトが立ち上がる。

【孝平】「どうよ」

【桐葉】「……む」

紅瀬さんは悔しそうにディスプレイを見つめた。

再びマウスを手に取り、カーソルを動かす。

カチッ

……。

カチッ

【桐葉】「……くぅっ」

【桐葉】「これ、壊れてるわ」

【孝平】「んなわけねーし」

思わず苦笑してしまう。

ここに来て、紅瀬さんの弱点を見つけてしまった。

彼女はかなりの機械音痴だ。

まるで不発弾処理でも行うような手つきで、マウスを操作している。

【孝平】「ほら、もう一回」

【孝平】「俺がやったみたいに、リズミカルにな」

【瑛里華】「あーあ、ダブルクリックできただけでずいぶん偉そうねえ」

副会長が呆れたように言う。

俺は胸を張った。

【孝平】「偉そうにしてるわけじゃない」

【孝平】「実際、偉いんだ」

【瑛里華】「はいはい」

【桐葉】「これでいいの?」

【孝平】「え?」

ディスプレイに目をやると、表計算ソフトが立ち上がっている。

【孝平】「……できたのか?」

【桐葉】「ええ」

【孝平】「なかなかやるな」

【桐葉】「では、教え方がよかったんでしょう」

【桐葉】「……ふっ」

得意げな笑みだ。

実は嬉しかったのかもしれない。

【孝平】「じゃ、ちょうどいい。次は表計算ソフトを使って明細書を作るぞ」

【桐葉】「表計算?」

【孝平】「ああ。機能を使うといろいろ便利なんだよ」

俺は簡単に表組みを作り、体裁を整えた。

【孝平】「いちいち電卓で計算して書き込むのは面倒だろ?」

【孝平】「だからこうやって……」

セルに数字を入力する。

だが、うまく合計が出ない。

【孝平】「あれ?」

操作を間違えたか?

実はうろ覚えだったり。

などとまごついていると、

【桐葉】「255……342……」

紅瀬さんの指が、机の上で動く。

そろばんを弾く動きだ。

【桐葉】「合計は128994」

【孝平】「ぬう」

デジタルがアナログに負けた。

30分後。

紅瀬さんは少しずつパソコンの使い方を覚えていった。

キータッチはおぼつかないが、時間をかければ慣れるだろう。

【征一郎】「手が空いたら、封書の宛名書きを頼む」

【征一郎】「たった五通だから、パソコンを使うまでもないだろう」

封筒と筆ペンを手渡された。

はっきり言って、字にはまったく自信がない。

紅瀬さんにバトンタッチすることにする。

【孝平】「俺が読み上げるから、そのまま書いていってくれ」

【桐葉】「いつでもどうぞ」

【孝平】「じゃあいくぞ。潮見市浜美町4丁目3番地1番……」

【孝平】「渡辺太史様、と」

さらさらと筆ペンを走らせる音。

ものすごい達筆だった。

達筆というか、今時の若者にはないこなれた崩し方だ。

まるで祖父母の手紙を見ているような感覚。

しかも、旧漢字とか使ってるし。

【桐葉】「これでいいかしら」

【征一郎】「完璧だ」

【桐葉】「どうも」

【征一郎】「では次も頼む」

【桐葉】「はい」

ビジネスライクなやり取り。

愛想のなさと無駄を嫌う点では、けっこう似てる二人なのかもしれない。

……。

ところで。

紅瀬さんって、本当は何歳なんだろう?

その字面だけ見ても、俺より遥かに長い年月を生きているような気がする。

知りたい。

が、女性に面と向かって年齢を聞くのははばかられる。

一応同級生なのに。

【桐葉】「何?」

俺の視線に気づいたのか、紅瀬さんは顔を上げた。

【孝平】「あ、いや」

【孝平】「綺麗だな、と思って」

【桐葉】「?」

【征一郎】「……っ」

【瑛里華】「!!」

空気が固まった。

【瑛里華】「ちょ、ちょっともう、やーねえ」

【瑛里華】「そーゆー会話は、二人きりの時だけにしてくれない?」

【孝平】「へ?」

【征一郎】「支倉、伊織のキャラが移ったんじゃないか?」

【征一郎】「ああいうタイプは一人で十分なんだがな」

【孝平】「え……」

なんか、ものすごい誤解を招いている予感。

【孝平】「あ、ち、違う! 綺麗っていうのは、字のこと!」

【孝平】「字が綺麗だって言いたかったんだっ」

【瑛里華】「いいのよ、照れ隠しなんて」

【征一郎】「まったくだ」

【瑛里華】「しっかし知らなかったわ~。意外なカップルね」

【孝平】「だから違うのに!」

【瑛里華】「またまた」

【瑛里華】「じゃあ紅瀬さんはどうなのよ」

なかなか食い下がる。

すると紅瀬さんは、手を止めてちらりと副会長を見た。

【桐葉】「どうかしら」

……。

【瑛里華】「微妙ね」

【征一郎】「微妙だな」

【孝平】「もういいから、仕事してくださいっ」

そう言うと、二人は肩をすくめてから持ち場に戻った。

まったく。

うっかり墓穴を掘ってしまった。

【桐葉】「次、読んで」

【孝平】「お、おう」

でも、なぜ紅瀬さんは否定しなかったんだろう。

やたらと気になってしまい、その日は仕事に集中できなかった。

実行委員の仕事が終わったのは、夜になる直前だった。

俺と紅瀬さんは、二人で寮への道を歩いている。

何か話題を探したが、うまいこと見つからない。

話したいことはたくさんあるにも関わらず。

隣を歩いているだけで、胸がいっぱいになってしまう。

こんなことは初めてだ。

【孝平】「えっと」

自然な口調を作った。

【孝平】「ネネコ、元気か?」

【桐葉】「最近はあまり見ていないわね」

【孝平】「そうか」

……。

終了。

うまく話がつながらない。

別の話に切り替えてみよう。

【孝平】「会長たちのお母さんに、会えるといいな」

【孝平】「でもって、お母さんが主だったらもっといいな」

【桐葉】「……そうね」

どこか迷いのある肯定だった。

会いたいのか、会いたくないのか。

ずっと捜していたわりには、あまり乗り気ではないようにも見える。

以前から、その部分が引っかかっていた。

【孝平】「なあ、聞いていいか?」

【桐葉】「ええ」

【孝平】「紅瀬さんは、どうして主を捜しているんだ?」

そう尋ねると、紅瀬さんの歩調が遅くなった。

やがて、噴水の前でぴたりと止まる。

言葉を選んでいるようだ。

【桐葉】「……私も、よくその理由について考えるの」

【桐葉】「でも、いつも答えは見つからない」

【孝平】「どういうことだ?」

俺も立ち止まる。

捜している理由が、自分でもわからないなんて。

【桐葉】「うまく説明できないけど……」

【桐葉】「私は、もう長い間鬼ごっこを続けているのよ」

【孝平】「鬼ごっこ……?」

【桐葉】「主に命令されているの」

【桐葉】「私はこの命令に逆らうことはできない」

なんだ、それ?

わけがわからない。

【桐葉】「私が主を捜す理由は、そう命令されているから、ということよ」

【桐葉】「捜し出すこと自体が目的なの」

ますます意味不明だ。

【孝平】「いや、でも」

【孝平】「紅瀬さんは、主についての記憶はないんだろ?」

【桐葉】「ないわ」

【桐葉】「私にあるのは断片的な過去の記憶と、意識の中にすり込まれた命令だけ」

【桐葉】「でも鬼ごっこを続けるうちに、少しずついろいろなことを思い出してる」

【孝平】「……例えば?」

【桐葉】「例えば……主は女だったということ」

【桐葉】「そしてこの島は、私の故郷だったということ」

ここが、紅瀬さんの故郷。

俺は、あの丘で見せる紅瀬さんの表情を思い出した。

懐かしいような、切ないような、寂しいような。

あれは無意識のうちに、郷愁に浸っていたのかもしれない。

【桐葉】「まだあるわ」

【桐葉】「この鬼ごっこは、どうやら初めてではないということ」

【桐葉】「過去にも何度か主を捜して、見つけ出しているはず」

【孝平】「は?」

思わずすっとんきょうな声が出る。

【孝平】「ちょっと待ってくれ」

【孝平】「その鬼ごっことやらを、何度もやり直してるってことか?」

【桐葉】「おそらく」

【桐葉】「主を見つけ出すたびに記憶を消されて、振り出しに戻るのよ」

【孝平】「なんだそりゃ」

【孝平】「意味ないだろ、それじゃ」

【桐葉】「そうね」

【桐葉】「……意味は、ないでしょうね」

ゆっくりとつぶやく。

完全に、俺の理解の範疇を越えていた。

永遠に繰り返される鬼ごっこ。

やっとのことで主を見つけたご褒美が、記憶を消されることだとは。

不毛だ。

あまりにも非生産的だ。

そんなものに紅瀬さんが囚われているのが、悔しくてならなかった。

【孝平】「なんとかならないのか」

【孝平】「その、鬼ごっこをやめる方法とか」

【桐葉】「私にはどうすることもできないわ」

【桐葉】「ただ主の気配がする方へと進むだけ」

【孝平】「……」

本当に、どうすることもできないのか?

俺は紅瀬さんの中に、迷いを見ているのだ。

命令に突き動かされている、という風でもない。

どちらかというと、ライフワークのようにのんびり構えている向きがある。

その矛盾の正体が、俺にはわからない。

……。

なんとかしてやりたい。

主のくだらない命令から、紅瀬さんを解放してやりたい。

具体的にどうすればいいのかなんて、俺には見当もつかないけど。

もし会長たちの母親が、紅瀬さんの主だったとしたら……。

その時、俺はどうするんだろう?

【孝平】「なあ」

【孝平】「俺、何か力になれないか?」

【桐葉】「……」

【孝平】「特殊な能力なんてないから、どう役立てるかわかんないけどさ」

【桐葉】「そう言われても、私だってわからないわ」

はっきり言われた。

【孝平】「まあ、そうだよな」

【桐葉】「ええ」

【桐葉】「だから……」

紅瀬さんは、俺を見つめた。

【桐葉】「……そこにいてくれれば、いいと思うわ」

【孝平】「え?」

【桐葉】「だから」

【桐葉】「近くにいた方が、何かといいでしょう」

【桐葉】「同じ実行委員でもあるのだし」

【孝平】「あぁ……」

心なしか、紅瀬さんの頬に赤みが差したように見えた。

都合のいい幻覚と言われればそれまでだが。

【孝平】「要するに、そばにいてほしいってこと?」

【桐葉】「……っ」

【桐葉】「貴方、どういう翻訳機能を持っているの?」

【孝平】「なかなか高性能だと思うけどな」

【桐葉】「一度点検した方がよさそうよ」

【孝平】「容赦ないな、相変わらず」

【桐葉】「ふっ」

わずかに見せた微笑み。

でも、俺だけに向けられた笑顔。

俺の居場所は、紅瀬さんのそばにある。

そう思ってもいいんだろうか。

//June 13//

【司】「孝平、メシ」

【孝平】「おう」

昼休み。

俺たちは学食に行くために、席から立ち上がった。

【司】「今日は鉄人の夏季限定メニューが登場する日だ」

【孝平】「マジか?」

【司】「インド風激辛チゲ」

【孝平】「清涼感ゼロだな」

夏季限定というより、紅瀬さん限定メニューだ。

でもこれで、せっせと七味をかける手間もなくなるかもしれない。

【桐葉】「支倉君」

【孝平】「ん?」

振り返ると、ちょうど紅瀬さんが立っていた。

どこかぼんやりとした、焦点の定まらない顔。

【桐葉】「午後、抜けるわ」

【桐葉】「一応報告しておこうと思って」

【孝平】「え? なんで……」

あ。

例の「強制睡眠」か。

【孝平】「もう行くのか?」

【桐葉】「ええ」

【孝平】「せめて昼飯食べていけよ」

【孝平】「食べたいだろ? インド風激辛チゲ」

【桐葉】「食べている途中で、鍋に顔を突っ込むことになるわ」

【桐葉】「それじゃ」

そう言って、紅瀬さんは行ってしまう。

かなり急いでいる様子だ。

また以前みたいに、途中で事切れていなければいいが。

放課後、俺は大急ぎで丘に駆けつけた。

一番小高い場所に、彼女が座っているのが見える。

どうやら睡眠は終わったようだ。

【桐葉】「駄目よ、爪を立てちゃ」

【ネネコ】「にゃー」

【桐葉】「そう。いい子ね」

足元でじゃれついているのはネネコ。

無邪気に遊んでいる様子を見て、紅瀬さんは笑顔をこぼしている。

ネネコに嫉妬すら覚えてしまいそうな、レアな表情だ。

【孝平】「紅瀬さん」

【桐葉】「……っ」

声をかけると、紅瀬さんはすぐに笑顔をしまい込んだ。

無防備なところを見られて、少し気まずそうだ。

【桐葉】「来たのね」

【孝平】「ああ」

【桐葉】「それで、用件は?」

絶対言うと思った。

【孝平】「用件ならあるぞ」

【孝平】「まずはこれだ」

そう言いながら、俺は制服のポケットから文庫本を取り出した。

それは、以前紅瀬さんから借りていた谷崎潤一郎の本だった。

【孝平】「悪い。ずっと返しそびれてた」

【孝平】「意外と面白かったぞ」

【桐葉】「そう」

紅瀬さんは本を受け取った。

【孝平】「よかったら、また貸してくれよ」

【桐葉】「……そうね」

【桐葉】「今度貸すわ」

【孝平】「どんな話?」

【桐葉】「とても悲しい恋愛小説」

その長いまつげに、陽の光がともる。

さらさらとなびく美しい髪。

触れたい。

衝動的な感情を、抑えるだけで精一杯だった。

【孝平】「よしネネコ、俺と遊ぶか」

ごまかすようにしてしゃがみ込み、ネネコに手を伸ばす。

しかし、当人はどこかそっけない。

【孝平】「どうしたー?」

【ネネコ】「にゃっ」

【孝平】「いてっ!」

手の甲に痛みが走る。

いきなりネネコが引っ掻いてきたのだ。

【桐葉】「大丈夫?」

【孝平】「まあ、大丈夫」

【孝平】「今日は機嫌が悪いのかな」

かなり気合いを入れて引っ掻いてきたらしく、少し血が滲んできた。

ちょっとだけショックだ。

【桐葉】「触っちゃ駄目よ。待ってて」

紅瀬さんは立ち上がり、周囲をうろうろと歩き始めた。

やがて何かを見つけたらしく、しゃがみ込む。

何やら植物を摘んでいるらしい。

【桐葉】「今、消毒するわ」

葉の部分をつぶしてから、紅瀬さんは俺の手を取った。

意外と温かい手だった。

【孝平】「なんだそれ?」

【桐葉】「この周辺に自生している、殺菌作用のある植物よ」

【桐葉】「大した傷ではないけど、念のため」

傷の部分に、すり込むようにして塗っていく。

俺は緊張のあまり、ごくりと唾液を飲み込んだ。

紅瀬さんが近い。

以前、紅瀬さんを背負って運んだりしたことはあったけど。

あの時は運ぶことに一生懸命で、余裕なんてまったくなかった。

でも今は、紅瀬さんの存在を間近に感じることができる。

まっすぐに通った鼻筋。

きりりとしたアーチ型の眉。

艶やかな薄い唇。

細い手首。

その洗練された造形の一つひとつに、ため息が出そうになった。

【桐葉】「……手が、熱いわ」

【孝平】「ああ」

【桐葉】「手のひらに汗をかいてる」

【孝平】「そっちだって」

【桐葉】「……」

紅瀬さんは、ぱっと俺の手を放した。

【桐葉】「はい、これでいいわ」

【孝平】「もう終わり?」

【桐葉】「大した傷ではないと言ったでしょう」

かわされてしまった。

でも、俺にはわかった。

紅瀬さんも、俺と同じように緊張してるということを。

【孝平】「ずいぶん変わった治療法を知ってるんだな」

【桐葉】「そう?」

【桐葉】「昔は誰でもやっていたことよ」

【孝平】「紅瀬さんの言う昔って、どれくらい昔だよ」

【桐葉】「昔のこと過ぎて忘れたわ」

【孝平】「ちょ、ちょっと待ってくれ」

【孝平】「率直に聞く。紅瀬さん、生まれたのいつ?」

すると紅瀬さんは、眉間に皺を寄せた。

一生懸命思い出そうとしているらしい。

【桐葉】「おそらく、250年くらい前だと思うわ」

250……。

250!

【孝平】「江戸時代……っすか」

【桐葉】「たぶん」

くらくらと眩暈がした。

もう年上とかそういうレベルじゃない。

【桐葉】「前にも言ったけど、あまり記憶がないの」

【桐葉】「だから断言はできない」

【孝平】「あのさ、それって眷属では普通のことなのか?」

【桐葉】「さあ。他の人のことはよくわからないわ」

【桐葉】「でも、理論的に考えればもっと長く存命してる人もいるでしょうね」

【孝平】「そうか……」

ぐるぐるぐるぐる。

頭の中がメリーゴーランド状態だ。

【孝平】「あ、でも、なんで見た目がそんなに若いんだよ」

【孝平】「スギの木なら世界遺産に登録されるぐらいだろ」

【桐葉】「250年くらいじゃ無理ね。千年は越えないと」

紅瀬さんは冷静に言う。

【桐葉】「眷属は、自分の意志で外見年齢を決めることができるのよ」

【桐葉】「ただ、一度決めたらその年齢から若返ることはできないけど」

またまたショッキングな答えだ。

【孝平】「じゃあ、今の紅瀬さんは、本当の紅瀬さんの姿じゃないのか?」

【桐葉】「それは定義づけの問題ね」

【桐葉】「眷属の肉体は、何年生きても衰えない」

【桐葉】「逆に言うと、何歳の姿でもそれが実年齢となり得るのよ」

【孝平】「……なるほど」

納得したようなしてないような。

要は、決めたところから年を取らなくて済むということか。

【桐葉】「驚いたみたいね」

【孝平】「そりゃ驚くさ」

【桐葉】「どう思う? 私、貴方の何倍も長く生きてるのよ」

【孝平】「どう思うって、すごいとしか言いようがないだろ」

だって、他になんて言えばいい?

彼女にしてみりゃ、俺なんて若造もいいところだ。

【孝平】「それだけ長い時間を生きるってのは、俺にはぜんぜん実感できない」

【孝平】「でも、知りたいとは思う」

【孝平】「紅瀬さんが見たものとか、聞いたこととか……」

一つでも多くのことを分かち合いたい。

俺自身にそれだけの容量があるかどうかはわからないけど。

【孝平】「少しでも、話してくれると嬉しい」

【桐葉】「……」

小さくうなずいたように見えた。

【桐葉】「ここ、私の思い出の場所なの」

【孝平】「この丘が?」

【桐葉】「ええ」

遥かな水平線を見つめる、涼やかな瞳。

【桐葉】「ずいぶん昔、ここにいたような気がするの」

【桐葉】「景色はかなり変わってしまったけど……」

少し寂しそうに言う。

【桐葉】「この丘にいると、断片的に記憶が戻ってくるのよ」

【桐葉】「主が女だということも、ここに来るようになって思い出した」

この丘には、そういう意味があったのか。

ただ単に、睡眠を邪魔されないための場所なのかと思ってた。

【孝平】「俺にとっても思い出の場所になりそうだな」

【孝平】「初めてここを見つけた時は、実はすげー嬉しかった」

【桐葉】「どうして?」

【孝平】「紅瀬さんと、秘密を共有したからだ」

【孝平】「……まあそう思ってたのは、俺だけみたいだったけど」

【桐葉】「そうね」

【桐葉】「私は、失敗したと思ったわ」

【孝平】「はっきり言うなあ」

【桐葉】「でも、貴方でよかったとも思った」

【桐葉】「貴方でなければ、この場所を守り通せなかったかもしれない」

紅瀬さんはまつげを伏せる。

そんなことを言われたら、どう返事していいか困るじゃないか。

【孝平】「……」

【桐葉】「……」

会話が途切れた。

紅瀬さんは、俺の視線から逃れるかのようにうつむいたままだ。

【桐葉】「……あ」

【桐葉】「貴方、ずるいわ」

【桐葉】「私にばかりしゃべらせないで」

【孝平】「じゃ、もう一つだけ聞いていいか?」

【桐葉】「まだ何かあるの?」

【孝平】「これが一番大事な用件だ」

【孝平】「あの時の返事、聞かせてくれ」

【桐葉】「……っ」

視線が絡まった。

もう逃がさない。

今すぐに、紅瀬さんの本心が聞きたい。

【桐葉】「あの時って……」

【孝平】「俺が、紅瀬さんをここに運んだ日」

【孝平】「言ったよな? ずっと一緒にいたいって」

勢いづいたら、止まらなくなった。

結果的に、紅瀬さんを追い詰めていることになるのかもしれない。

それでも。

知りたいんだ。紅瀬さんの本当の気持ちを。

……。

…………。

沈黙が続く。

【桐葉】「……」

【孝平】「……」

……。

【孝平】「……なあ」

【孝平】「そろそろ何か言ってくれ」

【孝平】「でないと、緊張しすぎてやばいんだけど」

【桐葉】「言う必要なんてないでしょう」

【孝平】「……はい?」

俺はとっさに身構えた。

次に放たれる言葉を、覚悟して待つ。

【桐葉】「嫌なら嫌と言うわ」

【桐葉】「女が嫌だと言わないのは、そういうことよ」

……。

その発言について、しばし考えてみる。

ん?

つまり。

そういうこと?

【孝平】「ちょっと待て。いいのかホントに」

【孝平】「俺、その言葉をものすごくポジティブに受け取るぞ?」

【桐葉】「それは貴方が決めて」

【孝平】「俺が勝手に決めることじゃないだろ」

【孝平】「できればはっきり言ってくれ。つか、聞きたい」

【桐葉】「ではまず、貴方から言うのが筋でしょう?」

突き放した物言いだった。

まさかそう来るとは。

【孝平】「よし」

【孝平】「じゃあ言うぞ」

【孝平】「俺は……」

大きく息を吸い込む。

そして、吐き出した。

【孝平】「俺は、紅瀬さんが好きだ」

【孝平】「俺と付き合ってくれ」

なんのひねりもない、ど直球の告白だった。

気の利いたことなんか言える余裕はない。

ただ、この気持ちを受け取ってほしい。

その一心だった。

【孝平】「言ったぞ」

【孝平】「次はお前の番だ」

【桐葉】「……ふ」

……。

…………。

【孝平】「って、なんか言えっ」

【桐葉】「言う必要はないと言ったでしょう」

【桐葉】「それが私の返事よ」

【孝平】「卑怯だぞお前」

【孝平】「俺、今すげー恥ずかしかったのに」

【桐葉】「そう」

【孝平】「くうぅっ」

ずるい。

なんか俺ばっかり好きみたいじゃないか。

実際その通りだけど、不公平だ。

俺にだって、そのポーカーフェイスを崩す権利はあるはず。

【孝平】「紅瀬さん」

俺は意を決して、紅瀬さんの両肩に手を乗せた。

【孝平】「目、閉じて」

【桐葉】「え?」

【孝平】「開けたままでもいいけど」

【桐葉】「……っ!」

無我夢中だった。

遠慮のないキスだった。

その柔らかい唇に唇を押し当てた時、世界の音が消えた。

俺は今、紅瀬さんとキスしている。

そのとんでもない事実に、押しつぶされてしまいそうだ。

どうしよう。

少し強引だったか?

嫌がってたりして。

……。

俺は、なんてことをしてしまったんだ。

【桐葉】「……」

その薄い唇から、小さなため息が漏れた。

こわばった細い肩から、ゆっくりと力が抜けていく。

なぜ抵抗しない?

俺のこと、嫌じゃないのか?

……。

そうか……。

紅瀬さんは、嫌なら嫌と言う人だったよな。

少なくとも、嫌がられてはいないんだ。

よかった。

【孝平】「……」

心が少しずつ穏やかになっていく。

俺は、その細くしなやかな肩を抱き寄せた。

【桐葉】「ん……っ」

俺の腕の中に、すっぽり収まる彼女。

さらさらの長い髪。

この髪に、ずっと触りたいと思ってたんだ。

どんな手触りだろうとか、どんなシャンプーの匂いがするのかとか。

……そんなことを考えてた。

【桐葉】「……はぁっ」

【桐葉】「んんっ」

息継ぎする間も与えない。

しっとりと湿った唇に、小さなキスを繰り返す。

キスをしながら、そのつるつるとした髪を撫でた。

なめらかな指通り。

どこか懐かしいような、花の香りがする。

ジャスミンだ。

これが紅瀬さんの香りなのか。

【孝平】「……はぁ」

【孝平】「やっぱ好きだ」

そうつぶやくと、彼女は少しだけぶすっとした表情になった。

なのに顔は赤い。

【孝平】「怒ってるのか?」

【桐葉】「別に」

相変わらず、何も言ってはくれないけど。

きっと彼女は、俺以上に照れ屋なのかもしれない。

そう思った。

//Another view : Kiriha//

今日も一日が終わっていく。

雲は風に流され、漆黒の闇に星が瞬いていた。

このぶんなら明日は晴れそうだ。

そう思ったら、なぜか心が浮き足立った。

……。

今までは明日の天気なんて、どうでもいいことだった。

晴れようが雨が降ろうが、私にはなんの関係もないこと。

あの丘にいる時だけは、雨が降ると少し困ったけど。

でも、それだけのことだ。

【桐葉】「……ふぅ」

なのに、今の自分は違う。

明日はどんな天気だろう?

明日はどんな一日になるだろう?

気づいたら、そんなことを考えている。

懐かしい感覚。

おそらく……。

私が人間だった頃、当たり前のように持ち合わせていた気持ち。

毎日が楽しかった頃の記憶だ。

かつて自分がどんな生活をしていたのか、ほとんど覚えていない。

でも私には、確かに幸福だった時代があった。

家族や、仲間に囲まれていた時間があった。

今はもう、誰も生きてはいないけれど──

……。

不思議な手触りだ。

主を追うだけが目的だった日々に、新たな光が生まれた。

すぐ目の前に、誰かの温度を感じる。

いつも見ていた背中。

彼の体温が、私の中に染み渡るのを感じるのだ。

……。

窓ガラスに映る、自分の唇。

彼が触れた瞬間のことを思い出した。

不意を突かれたわけではない。

避けようと思えば、避けることができたタイミングだった。

でも私は。

……。

違う。

【桐葉】「私も……」

望んだのだと思う。

彼の示した、新たな光へと向かうことを。

彼とともに。

//Another view ends//

//June 16//

カタッ

カタカタッ

監督生室に、キーを叩く音が響く。

お世辞にもあまりスムーズとはいえないリズムだ。

タッチタイピング攻略は、かなり難航しているとみた。

【桐葉】「……っ」

【桐葉】「くっ」

キーを叩いたりクリックしたりするたびに、小さく唸る。

本人は気づいていないっぽい。

しかし、紅瀬さんがここまで機械音痴だとは。

【桐葉】「あ」

ジャンッ

パソコンからエラー音が鳴った。

【桐葉】「……?」

首を傾げながら、マウスを手に取る。

カチカチカチッ

すると、いきなり画面が真っ暗になった。

ヒューン

【桐葉】「!」

【孝平】「あっ!」

……。

電源が落ちた。

【孝平】「今、何をした?」

【桐葉】「何もしていないわ」

【桐葉】「適当にクリックしただけ」

【孝平】「クリックする前だよ」

【孝平】「絶対なんかしただろ」

【桐葉】「……」

【孝平】「ほら!」

紅瀬さんと実行委員の仕事をするようになって、数日が経った。

実際、彼女はとてもよく働いてくれている。

字は綺麗だし、計算も早い。

俺なんかよりよっぽど優秀な人材だ。

……が。

機械音痴な上に、どうもこのパソコンとは相性が悪い。

もともと安定したマシンのはずなのに、紅瀬さんとはケンカばかりだ。

【孝平】「とりあえず、もう一回起動してみよう」

紅瀬さんは恐る恐る、電源のボタンを押す。

しばらく沈黙した後、見慣れた起動画面が表示された。

【桐葉】「……ふぅ」

【孝平】「よかったな」

【孝平】「もう少しでマシンクラッシャーと呼ばれるところだったぞ」

【桐葉】「ちょっと調子が悪かっただけよ」

紅瀬さんは肩をすくめた。

そうは言いつつ、どこか悔しそうだ。

【桐葉】「宛名書きをするから、そっちをお願い」

【孝平】「ああ」

俺は表計算ソフトを立ち上げ、数字入力を開始する。

……。

静かだ。

俺たち以外のメンバーはみんな出払っている。

つまり、二人きりということだ。

なのに。

いつも通り真面目に働いている俺たち。

紅瀬さんも通常営業といった様子で、普通にそっけない。

この人は、本当に俺がキスした相手なのだろうか?

だんだん心配になってきた。

ちゃーちゃーちゃっちゃー♪

その時、ポケットの中で携帯が鳴った。

ディスプレイを見ると、かなでさんからのメールだった。

『今からへーじに、茶葉の買い出し頼むよ』

『どくだみ茶とゴーヤ茶どっちがいい?』

【孝平】「ぶっ」

その二択しかないのかよ。

健康番組か何か見たんだろうな、きっと。

俺は手早く、『つぶつぶオレンジジュース希望』とだけ打って返信した。

【孝平】「これでよし、と」

【桐葉】「……」

視線を感じて、そちらを見た。

【孝平】「ん?」

紅瀬さんの視線は、俺の手元に注がれている。

携帯を見ているらしい。

【孝平】「携帯、触ってみる?」

【桐葉】「いいえ」

【孝平】「でも、ちょっとは興味あるだろ?」

【桐葉】「別に」

【孝平】「メールとか、してみたいと思わない?」

【桐葉】「思わないわ」

【桐葉】「する相手もいないし」

……。

【孝平】「いや、ちょっと待て」

【孝平】「いるだろ、ここに」

【桐葉】「? どうして?」

どうして、ときたか。

本気で悲しくなってきたぞ。

【孝平】「俺とメールなんて、したくないか?」

【桐葉】「する必要ないでしょう」

【桐葉】「遠く離れて住んでいるわけでもないし」

【孝平】「……?」

【孝平】「じゃあ、遠くに住んでたらメールするのか?」

【桐葉】「そうね。便利そうだもの」

……。

どうやらお互いのメールの概念に相違がありそうだ。

【孝平】「なあ、一つ提案があるんだけどさ」

【孝平】「今度一緒に携帯買いにいかないか?」

【桐葉】「二つも必要なの?」

【孝平】「俺のじゃないだろ。今の話の流れだと」

【孝平】「紅瀬さんの携帯だよ」

【桐葉】「……私?」

奇妙なものに出会ったような顔で、俺を見る。

【桐葉】「いらないわ」

【孝平】「そう言うなって」

【孝平】「東儀先輩も言ってただろ。あった方が何かと便利だぞ」

【孝平】「メールもしたいし」

【桐葉】「私と?」

【孝平】「もちろん」

【孝平】「それに、声も聞きたい」

【孝平】「主に夜とか。寝る前とか」

【桐葉】「……私と?」

【孝平】「うん」

【桐葉】「そう……」

黙ってしまった。

嫌だったのか?

……違うな。嫌なら嫌というはずだ。

それなら答えは一つ。

単に恥ずかしがっているのだ。

【桐葉】「……使いこなせるかどうか、わからないわよ」

【孝平】「俺がちゃんと教える」

【孝平】「メール早打ち選手権で優勝を狙えるぐらいの腕前にしてやる」

【桐葉】「なんて打てばいいのかしら」

【孝平】「いろいろあるだろ」

【孝平】「支倉君大好き、とか」

【桐葉】「……」

【孝平】「調子に乗りましたすみません」

【桐葉】「では、貴方はなんて打つの?」

【孝平】「俺?」

【孝平】「俺は……」

少し考えてから、言った。

【孝平】「会いたい、とかな」

【桐葉】「……っ」

紅瀬さんは耳を赤くしてから、わざとらしく窓の外を向いた。

【伊織】「……ほう」

【伊織】「なかなか男前な台詞を繰り出すねえ。支倉君は」

【瑛里華】「しーっ」

【瑛里華】「感心してる場合じゃないでしょっ」

【瑛里華】「どうするのよ、これじゃ入るに入れないじゃない」

【伊織】「まあまあ、いいじゃないか。邪魔するのも悪いだろ」

【瑛里華】「ったく、なんで私たちが閉め出されなきゃならないのかしら」

【伊織】「はは、それはね。罰だよ」

【瑛里華】「罰?」

【伊織】「お前、紅瀬ちゃんを自分の部下にしたかったんじゃないか?」

【瑛里華】「なっ!」

【伊織】「いつも数学で負けてるんだって? よほど悔しかったんだろうな」

【伊織】「だから文化祭実行委員という大義名分を使った。そうだろ?」

【瑛里華】「ち、違うわっ」

【伊織】「声が大きい」

【瑛里華】「くっ……」

【瑛里華】「私はただ、優秀なライバルと切磋琢磨したかっただけよ」

【瑛里華】「そのためには、いつも近くにいた方がいいでしょ」

【伊織】「ふーん」

【伊織】「模範解答ではないが、まずまずだな」

【伊織】「じゃあそういうことにしておこうか」

【瑛里華】「いちいちむかつく言い方ね」

【伊織】「そりゃ親譲りだなあ」

【伊織】「じゃ、そろそろ入ろうか」

【瑛里華】「あっ!」

ばたんっ

【伊織】「ただいまー!」

【孝平】「わ!」

いきなり会長が入ってきた。

後ろには副会長もいる。

【孝平】「び、びっくりした」

【瑛里華】「ご、ごめんなさいね。その……」

【瑛里華】「もう、ノックぐらいしなさいよね、兄さん」

【伊織】「ああ、すまないすまない」

【伊織】「実は、紅瀬ちゃんにビッグニュースがあってね」

【伊織】「早く伝えたくて、ついついノックを忘れてしまったよ」

【孝平】「ビッグニュース?」

【伊織】「うん。ビッグかつフレッシュなニュースだ」

会長は満面の笑みを浮かべた。

【伊織】「うちの母親が、紅瀬ちゃんに会ってくれるってさ」

【孝平】「え!」

【桐葉】「……!」

紅瀬さんの目が、わずかに見開いた。

【伊織】「日程は7月5日の土曜日。期末試験の翌日だね」

【伊織】「どうする?」

【瑛里華】「……」

【桐葉】「……私は」

ためらっている様子だ。

いつか紅瀬さんが言ってた言葉を思い出す。

【桐葉】「主を見つけ出すたびに記憶を消されて、振り出しに戻るのよ」

もしも、もしも会長のお母さんが主だったら。

紅瀬さんはどうなるんだろう。

また、いろんなことを忘れてしまうのか?

【桐葉】「会います」

【桐葉】「会わせてください」

はっきりとした口調で、答えた。

【伊織】「うん、わかった」

【伊織】「詳しい時間なんかは、また今度伝えるよ」

【伊織】「近々、携帯買うんだろう?」

【桐葉】「え……」

【孝平】「……?」

【瑛里華】「兄さんっ」

【伊織】「いや、前に征が言ってたんだ」

【伊織】「紅瀬さん携帯持ってないから、何かと不便だなって」

【伊織】「支倉君もそう思うだろ?」

【孝平】「はあ」

【伊織】「じゃあ、次の日曜日にでも二人で買いに行くといい」

【伊織】「他に用事がなければの話だけど」

俺は、ちらりと紅瀬さんを見た。

携帯を買うには、街の方に出る必要がある。

紅瀬さんがそんなことオッケーしてくれるのか。

【伊織】「とりあえず、店頭で見てくるといいよ」

【伊織】「買う買わないはその時決めればいいさ」

【桐葉】「はい」

……。

【孝平】「え?」

【孝平】「今、はいって言った?」

【桐葉】「言ったわ」

【孝平】「日曜日に携帯買いに行くってこと?」

【桐葉】「まだ買うとは決めてないわ」

【桐葉】「見るだけ見てみようと思っただけよ」

それだけでも十分だ。

次の日曜日、二人で外出する。

要するに、それってつまり……。

【伊織】「やったね支倉君。初デートだ」

いともたやすく、会長はその言葉を口にした。

その笑顔と白い歯が、まぶしかった。