FANDOM


//August 4//

翌日。

今日も朝から実行委員の仕事。

相変わらず忙しいが、この山を乗り切れば後は楽だ。

順調にいけば、残りの夏休みをしっかり満喫できるだろう。

【瑛里華】「これで広告枠は全部埋まったわね」

【瑛里華】「招待客への手配は?」

【白】「だいたいメドがついています」

【瑛里華】「よかった。助かるわ」

【征一郎】「伊織。理事会の方は?」

【伊織】「問題ないね」

【伊織】「近々、向こうから特別予算編成の提案があるはずだ」

みんなろくに休憩も取らず、仕事に励んでいる。

つくづく、彼らの集中力はすごいと思う。

俺は、ふと隣を見た。

桐葉はいない。

東儀先輩の判断で、昨日に引き続き、休みを取るように伝えてあったからだ。

【征一郎】「支倉、そっちはどうだ?」

【孝平】「はい、もうすぐ終わります」

【征一郎】「一段落したら帰っていいぞ」

【征一郎】「ところで、紅瀬の調子はどうだ?」

東儀先輩は俺の背後に立った。

【孝平】「ちょっと疲れてるみたいです」

【孝平】「本人は、寝てれば大丈夫だと言ってますけど」

無難にそう答えておく。

俺だって、原因はよくわからないのだ。

【征一郎】「では、睡眠はちゃんと取れているのか?」

【孝平】「たぶん」

【征一郎】「他に気になったことは?」

……他に気になったこと。

俺は考え込んだ。

でも、なぜ東儀先輩がそんなこと聞くんだ?

【孝平】「俺にも、よくわかりません」

【征一郎】「そうか」

【孝平】「仕事なら、俺がきちんとやりますんで」

【征一郎】「それはいいんだ」

【征一郎】「なるべく、一緒についていてやれ」

【孝平】「はあ」

東儀先輩は自分の席に戻っていった。

かなり心配をかけちゃってるみたいだ。

後で桐葉に電話しておこう。

二時間後。

俺と副会長は、一緒に寮へと帰っていた。

【瑛里華】「はーあ」

【瑛里華】「もうすぐ夏休みも終わりね」

【孝平】「いや待て」

【孝平】「あと一ヶ月弱もあるから」

【瑛里華】「そんなのあっという間よ」

諦めたように副会長はつぶやく。

【瑛里華】「文化祭の準備なんかしてたら、あっという間」

【孝平】「悲しいこと言うなよ」

【瑛里華】「ふふっ、いいのよ。好きでやってるんだから」

【瑛里華】「お祭りって、当日よりも準備してる時の方が楽しいと思わない?」

【孝平】「そういうもんかな」

【瑛里華】「そういうもんでしょ」

【瑛里華】「あなたは、休み中どこか行く予定でもあるの?」

【孝平】「うーん」

行きたい気持ちはやまやまだが、今は桐葉の体調の方が心配だ。

【孝平】「ただ今計画中ってとこだ」

【瑛里華】「あらそう」

そう言ったきり、副会長は黙ってしまった。

しばらく無言のまま、帰路を歩く。

【瑛里華】「ねえ」

【瑛里華】「紅瀬さん、あれからどう?」

【孝平】「あれから?」

【瑛里華】「ほら……母様と会ってから」

【瑛里華】「まだ、主を捜してるんでしょう?」

副会長は俺をゆっくりと見上げた。

【孝平】「どうだろう」

【孝平】「あまり捜してるそぶりは見せなかったな」

【孝平】「捜すのやめたのかな、って思ったぐらいだし」

【瑛里華】「それはないと思うわ」

【瑛里華】「彼女の一存でやめられるものじゃないのよ」

確信のこもった口調だった。

【孝平】「どうしても、か」

【瑛里華】「どうしても、よ」

【瑛里華】「主が命令を解除しない限りはね」

【孝平】「……」

【瑛里華】「ごめんなさい」

【瑛里華】「貴方を不安がらせるつもりはないの」

【孝平】「ああ」

【瑛里華】「ただちょっと気になってただけ」

【瑛里華】「私も、兄さんもね」

【孝平】「そっか」

【孝平】「あんまり心配しないでくれって、会長にも伝えてくれ」

【孝平】「俺も、なるべく桐葉についていようと思うし」

【瑛里華】「ええ」

【孝平】「何かあったら相談しにいく」

【瑛里華】「そうしてほしいわ」

【瑛里華】「あなた、本当に紅瀬さんのこと大切にしてるのね」

【孝平】「な、なんだよ急に」

【瑛里華】「ふふ」

【瑛里華】「それだけ思われたら、紅瀬さんも幸せでしょうね」

【孝平】「……そうかな」

【瑛里華】「そうよ」

【瑛里華】「だから自信持ちなさい」

【瑛里華】「ほら、胸張って!」

びしっと言ってから、副会長は笑った。

入学式のスピーチで見たような、とても頼もしい笑顔だった。

部屋に戻り、ベッドに座る。

俺はさっそく、桐葉に電話をかけた。

プルルルル……プルルルル……

【孝平】「……」

プルルルル……プルルルル……

なかなか出ない。

寝てるのかな。

【桐葉】「もしもし」

ようやく出た。

【孝平】「すまん。寝てたか?」

【桐葉】「……そうね」

【桐葉】「寝てたのかもしれないわ」

【孝平】「なんだそりゃ」

【孝平】「具合はどうだ?」

【桐葉】「いつも通りよ」

それにしては、ひどく気怠い声だった。

【桐葉】「仕事はどうだったの?」

【孝平】「問題ないよ、何も」

【桐葉】「迷惑かけてごめんなさい」

【孝平】「いいってそんなの」

【孝平】「それより、今日はちゃんとメシ食ったか?」

【桐葉】「……ええ」

【孝平】「本当に?」

【桐葉】「本当よ」

【桐葉】「明日はちゃんと仕事するわ」

【孝平】「無理するなよ」

【桐葉】「無理なんて……」

言葉が途切れた。

【孝平】「桐葉?」

【桐葉】「……え?」

【孝平】「本当に大丈夫か?」

【孝平】「今から見舞いに行くよ」

【桐葉】「心配しないで」

【桐葉】「横になっていれば大丈夫だから」

【孝平】「でも」

【桐葉】「本当に、大丈夫」

これ以上は食い下がらせてもらえないようだ。

【孝平】「わかった」

【孝平】「じゃあ、また明日の朝にでも電話する」

【孝平】「10時くらいでいいか?」

【桐葉】「ええ」

【孝平】「じゃあ……お休み」

【桐葉】「お休みなさい」

【??】「にゃぁ」

ブツッ

電話が切れた。

あれ?

今、猫みたいな鳴き声が聞こえたような。

気のせいか?

気のせいだよな──

──その夜。

俺は夢を見た。

色のない草原を、桐葉が歩いている。

彼女の名を呼ぶが、その声は届かない。

走っても走っても、いつまで経っても追いつかない。

そうだ。

これは夢だからだ。

だから、こんなに足が重いのだ。

一瞬、桐葉がこちらを振り返った。

【孝平】「桐葉っ」

大きく手を振る。

しかし、彼女は再び前を向き……。

灰色の景色の中に、消えた。

//August 5//

【孝平】「……桐葉っ」

叫びながら、飛び起きた。

まぶしい光が差し込んでいる。

俺はゆっくりと周囲を見回した。

夢か。

あまり覚えていないが、よくない夢だった気がする。

なんとなく目覚めがすっきりしない。

【孝平】「あ」

時計を見ると、もう10時前だった。

昨夜はうまく寝つけず、朝方になってようやく眠れたのだ。

俺は大急ぎで身支度をしてから、机の上の携帯を取る。

桐葉は起きているだろうか?

プルルルル……プルルルル……

【孝平】「……」

プルルルル……プルルルル……

出ない。

もう一度かけ直してみたが、やはり同じ結果だった。

着信に気づいて、かけ直してくれればいいが。

俺はごろんとベッドに横たわった。

……。

駄目だ。

なぜか気になる。

たまたま席を外しているだけかもしれない。

または、例によって強制睡眠に入っているのかも。

そうは思うのだが、なぜか落ち着かないのだ。

変な夢を見たせいかもしれない。

午前11時半。

相変わらず電話は鳴らない。

何度もかけ直すのは気が引けたが、もう限界だった。

プルルルル……プルルルル……

【孝平】「……」

プルルルル……プルルルル……

やっぱり駄目だ。

俺はベッドから起き上がり、副会長の番号を呼び出した。

プルルルル……プルルルル……

【瑛里華】「もしもーし」

【孝平】「悪い。ちょっといいか?」

【瑛里華】「何? どうしたの?」

【孝平】「頼みがあるんだ」

【孝平】「今から、女子フロアに入れてもらえないか」

【瑛里華】「ええ?」

【孝平】「桐葉が、電話に出ないんだ」

【孝平】「心配性って言われるかもしれないけど……」

やけに胸騒ぎがする。

もうあれこれと考えてはいられなかった。

【瑛里華】「わかったわ」

二つ返事だった。

【瑛里華】「今から鍵を開けるから、ドアの前に来て」

【孝平】「すまん。恩に着る」

【瑛里華】「そんなこといいから、早くね」

【瑛里華】「じゃ」

ブツッ

電話が切れた。

俺は携帯を握りしめ、部屋を出た。

【孝平】「はぁ……はぁ……」

女子フロアへと続くドアに辿り着いた。

その瞬間、ちょうどドアが開いて副会長が顔を出す。

【瑛里華】「早く」

【孝平】「ああ」

お礼を言わせる間も与えず、副会長は踵を返した。

その後を無言でついて行く。

俺たちは桐葉の部屋の前に立った。

【瑛里華】「ここよ」

【孝平】「ありがとう」

さっそく扉をノックしてみる。

コンコン

……。

…………。

反応はない。

副会長も扉を叩く。

コンコン

……。

結果は同じだ。

まだ強制睡眠から目覚めていないのかもしれない。

だが、なぜか冷や汗が止まらなかった。

俺と副会長は、顔を見合わせる。

【瑛里華】「電話に出なかったの?」

【孝平】「ああ」

【孝平】「だいぶ前から何度もかけたんだけど、出ないんだ」

【瑛里華】「そう」

副会長は下唇を噛んだ。

【瑛里華】「しかたないわね」

【瑛里華】「部屋の鍵を開けましょう」

【孝平】「えっ」

【孝平】「それ、まずくないか?」

【孝平】「いやその前に、不可能だろ」

じゃらっ。

副会長はポケットから鍵の束を出した。

【瑛里華】「これ、マスターキー」

【瑛里華】「さっきシスター天池に借りたの」

【孝平】「……嘘だろ?」

【瑛里華】「それぐらいの信頼関係は築いてるつもりよ」

そう言ってから、副会長は鍵をさした。

さすが、としか言いようがない。

【瑛里華】「……あなた、紅瀬さんの部屋に入ったことある?」

鍵を回しかけて、副会長は手を止める。

ドキッとした。

【孝平】「ま、まあ」

【瑛里華】「そう」

【瑛里華】「じゃあ、ここから先はあなたに任せるわ」

【瑛里華】「何かあったら連絡してね」

【孝平】「わかった」

ガチャッ

鍵を回す。

俺はゆっくりとドアを開けた。

//Another view : Kiriha//

身体が、温かい。

母なる手で抱きしめられているよう。

このまま眠ることができたら、どんなに気持ちがいいだろう。

まるでゆりかごにいるみたいだ。

【??】「……お前は、今までよく歩いてきた」

【??】「もうつらい思いをすることはない」

私は、ずっとつらかったの?

【??】「お前はもう、一人ではない」

私は、ずっと一人だったの?

【??】「これからは、ずっとそばにいてやろう」

【??】「お前はただ、あたしだけを思えばいい」

【??】「あたしもお前だけを思おう」

【??】「今までも、そうやって生きてきただろう?」

……そうだった。

私はこの長い道のりを、主を思うことだけで生きてきた。

私がずっと、主を追い……。

主は私が来るのを待った。

そうでなければ、生きられなかった。

私は人間ではない。

眷属だ。

永遠の命を持つ、人外なのだ。

【??】「さあ、目を閉じるのだ」

目を閉じる。

身体の感覚が、少しずつなくなっていく。

音も。

色も。

匂いも。

痛みも。

悲しみも。

何もない世界。

すべてが、石に同化していく。

私が石になっていく──

──そうだ。

私たちは、石になりたかった。

鉱物のような存在になりたかった。

久遠の中で形を変えず。

意思を持たず。

ただそこに在り続けたかった。

有機体としての時間を失った私たちは、

どこまでも純粋な無機質になりたかった。

それが、無限を生きる私たちの、最後の理想だったのだ──

//Another view ends//

ドアを開けた瞬間、身体がひやりとした。

まるで、冷蔵庫を開けた時のような感覚。

冷房が強すぎる。

そう思った。

だが、部屋に入ってドアを閉めた瞬間、俺は違う意味で凍りついた。

【孝平】「きり……は?」

真っ暗な部屋。

ベッドに桐葉が寝ている。

その傍らに、青白い何かがあった。

青白い炎に包まれた──

──黒猫?

息を呑む。

膝から崩れ落ちそうになる。

【孝平】「……ね」

【孝平】「ネネコ……?」

ネネコがこちらを、ゆっくりと振り返った。

全身が粟立つ。

それは、ただの黒猫ではない。

この世のものではなかった。

これ以上近づくのはまずいと、本能が告げている。

だけど。

……。

桐葉が、連れていかれる。

ここではないどこかに、連れていかれてしまう。

【孝平】「……駄目だ」

自分でも、どうしてそんな行動に出たかわからない。

俺は反射的に、ネネコに飛びかかっていた。

【ネネコ】「……っ」

【孝平】「くぅっ!」

しかし、すんでのところでかわされてしまう。

俺の身体は、そのまま派手に壁へとぶつかった。

【孝平】「あっ……」

熱い。

手が焼けるように熱い。

見れば、ネネコに触れた部分が火傷していた。

【ネネコ】「……無駄なことだ」

【孝平】「っ!」

身体がびくんと跳ね上がる。

しゃべった。

ネネコが、確かにしゃべった。

【孝平】「お前、誰だ」

やっとのことで声が出る。

【ネネコ】「知りたいか?」

【孝平】「誰なんだよっ」

【ネネコ】「あたしは、桐葉の主だ」

【主】「お前たちのことは、ずっと見ていたぞ」

【孝平】「っ!」

こいつ……。

さまざまな情景が、頭の中で駆け巡る。

ネネコを初めて見たのは、教室の窓からだった。

中庭で、桐葉と仲良く遊んでいたネネコ。

別の日に、俺はネネコの後を追った。

そこで辿り着いたのが、あの尾根にある丘だった。

……。

そうだ、こんなこともあった。

突然の雨に見舞われたあの日。

俺はネネコに誘われるようにして、丘に向かった。

そこには、強制睡眠中の桐葉がいた。

俺が桐葉の正体を知ったのは、あの出来事があったからだ。

……。

まだある。

桐葉が、シスター天池に追われていたあの時。

桐葉の前に、いきなりネネコが飛び出してきた。

そのせいで桐葉が転び、シスター天池に捕まってしまったのだ。

すべては、ネネコが仕組んだこと。

……いや、桐葉の主の仕業だったのだ。

【孝平】「……なぜだ」

【孝平】「なぜ、俺をあの丘に引き入れた?」

【主】「ただの気まぐれだ」

【主】「そうした方が、より遊技が面白くなると思っただけのこと」

【孝平】「なんだって?」

【主】「お前のおかげで楽しめたよ」

【主】「途中まではな」

ネネコの目が、俺を睨む。

【主】「だが小僧、お前は出しゃばり過ぎた」

【主】「この遊技は、あたしと桐葉だけのものだ」

【主】「たかが人間が決まりを変えることは許さん」

【孝平】「遊技って……なんだよ」

【孝平】「そんなの、ただのお前の暇つぶしじゃないか」

永遠に終わらない鬼ごっこ。

主を見つけるたびに、また記憶を消される桐葉。

なのに、彼女は鬼役を降りることは許されない。

それが主の命令だからだ。

【主】「愚か者が。これは桐葉も望んだことだ」

【主】「人間のお前にわかるものか」

【孝平】「……桐葉が望んだだって?」

俺は横たわる桐葉を見た。

確かに俺には、わからないことなのかもしれない。

でも。

それでも。

記憶を消され、何かもなかったことにする生き方が、桐葉の望んだことなのか。

俺には、そうは思えないのだ。

【主】「理解した気になるなよ、小僧」

俺の考えを一蹴するように、ネネコは続ける。

【主】「所詮お前と桐葉は、生きている時間が違うのだ」

【主】「お前はいつか必ず、桐葉を置いて死ぬ」

【主】「お前たちが幸せな結末を迎えることは不可能だ」

【孝平】「だから……だから付き合うなって言うのか?」

【主】「……?」

【孝平】「お前に言われなくても、俺だって何度も考えたよ」

【孝平】「俺はどうやったって、桐葉を置いて先に死ぬ」

【孝平】「桐葉につらい思いをさせてしまう」

【孝平】「だったら……最初から付き合わない方がいいんじゃないか」

【孝平】「出会わない方がよかったんじゃないかって、そう思った」

【孝平】「だけど……」

胸の奥から、何かがこみ上げる。

悔しかった。

俺たちが積み上げてきたものを、否定されたような気がした。

壊れないように、崩れないように。

二人で必死で守ってきたもの。

見えない未来を照らそうとしてきたもの。

そんなものたちを、踏みにじられたような気がした。

だから、悔しかった。

【孝平】「お前に言われなくったって、わかってる」

【孝平】「でも……否定することに意味があるのか?」

【孝平】「無駄だからって切り捨てることで、桐葉は救われるのか?」

【孝平】「だったらなんで、無限の命があるんだよ」

俺は顔を上げた。

【孝平】「桐葉は石じゃない。感情があるんだ」

【孝平】「生きたいんだよ」

だから。

だから俺たちは、惹かれ合った。

生きているから。

そこに、感情があるからだ。

そうだろ?

桐葉──

//Another view : Kiriha//

白い世界の中で、ゆらゆらと身体が浮いている。

あたたかい。

羊水の中みたいだ。

私はもう、歩き続けなくていい。

一人で歩かなくてもいいのだ。

それは、なんて幸せなこと。

……。

【??】「……愚かな」

【??】「どれだけ御託を並べても、無意味だ」

【桐葉】「……?」

どこからか声がする。

なんだか怖い。

せっかくいい気分でいたのに。

【??】「置いていく者に、置いていかれる者のつらさがわかるか」

……置いていく者?

なんのこと?

私にはわからない。

私は、石だ。

ただの石だ。

石には、感情なんて──

【桐葉】「……っ」世界が、突然点滅を繰り返す。

まぶしい。

目を閉じているはずなのに、まぶしくてしかたない。

いったい、何が起こったの?

この安らかな世界を壊すのは、誰?

ピルルルル ピルルルル♪

【桐葉】「……?」

ピルルルル ピルルルル♪

この音。

ひどく聞き覚えがある。

懐かしい音だ。

とても、好きな音だった。

この音が鳴るたびに、胸が華やいだ。

この音が鳴るのを毎日待っていた。

私にいつも、嬉しい知らせを運ぶ音──

ああ……。

貴方なのね?

あれほどメールは、難しいから嫌だと言ったのに。

電話にしてと、何度も言ったのに。

ピルルルル ピルルルル♪

身体が、動かない。

腕も、指も、石のように動かない。

貴方からのメールを見たいのに。

どうして?

私は。

私は──

私は、何?

//Another view ends//

【桐葉】「うぅ……っ」

【孝平】「桐葉っ!?」

桐葉の口から、呻き声が漏れた。

微動だにしなかった寝顔に、苦悶の色が見える。

【孝平】「桐葉!」

【主】「くっ」

【主】「お前、邪魔だな」

【主】「血を吸ってやろうか?」

【孝平】「な……」

俺は桐葉の方に、にじり寄った。

ネネコ……いや、主の目が殺気をはらむ。

どうやら冗談で言っているわけではなさそうだ。

脚が震える。

腰が抜けているのかもしれない。

でも。

死んだって、桐葉のもとを離れない。

【孝平】「殺したいなら殺せ」

【孝平】「でもその代わり、桐葉を解放しろ」

【主】「なんだと?」

【孝平】「もう、桐葉の記憶を消すのはやめてくれ」

【孝平】「頼む……」

俺は、拳を握りしめた。

記憶がない。

それは、生きていなかったと同じことだ。

誰と話したかも。

誰と会ったかも。

嬉しかったことも。

頭に来たことも。

悲しかったことも。

笑ったことも。

俺は今まで、全部なかったことにして生きてきた。

それが、転校生の処世術だと思ったからだ。

【孝平】「……俺には、なんの思い出もない」

【孝平】「嫌な思い出もなきゃ、楽しい思い出もない」

【孝平】「人と関わると、別れる時につらいから……」

傷つかないように。

苦しまないように。

別れに痛みを伴わないように。

その結果、俺は無味無臭な過去を手に入れた。

【孝平】「でもそんなの、生きてるって言えないだろ」

【孝平】「嬉しいことも悲しいことも、全部ひっくるめなきゃ意味ないんだ」

【孝平】「でなきゃ……なんで生まれてきたのか、わからない」

【孝平】「そうだろ?」

誰に言うでもなく。

俺は、自分にそう言い聞かせていた。

戯れ言かもしれない。

綺麗事かもしれない。

でも俺は、俺を好きになってくれた桐葉を信じたい。

一緒に生きていくと誓った桐葉を、信じたいのだ。

【孝平】「……そうだ」

【孝平】「俺たちは誓ったんだ」

【孝平】「一緒に生きていこう、って……」

忘れない。

あの丘で誓い合った日のことを。

この思い出こそが、俺の生きている証なのだ。

【孝平】「そうだろ? 桐葉」

俺は手を伸ばし、桐葉の頬に、触れた。

//Another view : Kiriha//

ピルルルル ピルルルル♪

【桐葉】「……っ!」

少しずつ感覚が戻ってくる。

私は必死に腕を動かそうとした。

だけど、動かない。

身体の中心を、引き裂くような痛みが走る。

全身がきしむ。

まるでヒビが入っていくようだ。

……。

そうだ。

私は石なのだ。

動いてはいけないのだ。

ピルルルル ピルルルル♪

【桐葉】「くっ!」

駄目。

動いたらいけない。

このままでは砕けてしまう。

もう右腕には、大きなヒビが入ってしまった。

でも。

でも……。

彼が私を呼んでいる。

メールを見なければ。

この腕が砕けようとも。

【桐葉】「あぁ……っ!」

ようやくポケットの中の携帯に手が届く。

その代わり、人差し指が砕けてしまった。

あまりの痛みに、ふっと意識が遠くなる。

それでも、やめるわけにはいかない。

私は親指で、ボタンを押そうとした。

【桐葉】「あっ……うああぁっ……!」

親指が、あっけなく砕けた。

どうしよう。

私はどうしたらいいの?

【??】「無駄だ。すべての指が砕けるだけだ」

【桐葉】「えっ……」

今度は中指が砕けた。

泣きたいのに、涙が出ない。

主の言う通りだ。

もう私は、彼からの言葉を受け取ることができないのだ。

【??】「自分の立場がわかったか?」

【??】「これは命令だ」

その声に、全身が硬直する。

主の命令。

それが、私にとってのすべてだった。

今までは。

そしてこれからも。

私はその命令があるから、生きることができた。

でも──

私は、残った指を懸命に動かした。

【??】「やめろ」

【??】「お前は、石でいい」

【桐葉】「ああああぁっ!」

根元から小指が砕ける。

それでも──

//Another view ends//

──桐葉。

俺は、桐葉と出会ったことを後悔していない。

桐葉との思い出を、なかったことにするつもりはない。

一番つらいのは、きっと……。

今まで積み重ねてきたものを、なくしてしまうこと。

桐葉と話したことや、桐葉が俺に見せた表情。

桐葉の声や、桐葉の赤く染まった頬や、桐葉の体温。

桐葉の髪が、風に揺れる姿。

ジャスミンの香り。

つないだ手の、桜色のかわいい爪。

そういうの全部を、記憶から削除されてしまうことだ。

……俺は、なくしたくないよ。

【孝平】「……なくしてほしくない」

桐葉に語りかける。

二人で積み重ねてきたもの。

それは俺にとって、清らかで美しいものだ。

水晶のように純粋な、宝物だ。

【孝平】「桐葉。目を醒ましてくれ」

桐葉の前には、無限の時間がある。

その時間を、俺は見届けることができないけれど。

それでも。

それでも──

//Another view : Kiriha//

【??】「やめろ」

【??】「主の命令だ」

私は、あの日誓ったのだ。

この先きっと、つらい思いをする。

胸が張り裂けそうな思いを強いられる。

あの人の後を追いたくても、私にはそれが叶わない。

一生、抜け殻のような気持ちを抱えていくことになるかもしれない。

それでも──

ピルルルル ピルルルル♪

【桐葉】「くううぅっ……」

奥歯を噛みしめる。

激しい痛みに、涙がにじむ。

──涙?

私には、まだ流せる涙があったのだ。

私には、感情がある。

生きているのだ。

【桐葉】「うぅ……あああああぁっ……!」

私は、生きている。

【??】「なっ……!」

残された、たった一本の薬指。

私は力を振り絞り──

最後の指で、携帯のボタンを押した。

ああ── (Background: 一緒に生きて行こう)

それが、貴方からの言葉だった。

あの丘で誓った大切な言葉。

私の、宝物……。

ねえ……待っていて。

今、すぐに行くから。

貴方のもとに。

貴方にメールで、返事をしに行くから。

待っていて。

待っていてね──

//Another view ends//

【桐葉】「う……」

【孝平】「桐葉?」

桐葉の頬に、赤みが差す。

まぶたが小さく揺れる。

俺はその頬を、両手で挟んだ。

【孝平】「桐葉っ。桐葉っ!」

【主】「……ふん」

【孝平】「あっ」

主はつまらさなそうに鼻を鳴らしてから、消えた。

まるで最初からそこにいなかったかのように、あっけなく。

気づけば、冷気は消えていた。

重苦しい空気はなくなり、部屋も明るさを取り戻している。

【孝平】「桐葉? 大丈夫か?」

【桐葉】「ん……」

まつげが揺れる。

目の端が、きらりと光った。

ゆっくりと、涙が頬を伝っていく。

その薄い唇が、わずかに動いた。

【孝平】「桐葉っ?」

【桐葉】「……」

【孝平】「え?」

今、何かつぶやいた。

俺は口元に、耳を寄せる。

【桐葉】「……了解」

【孝平】「……」

了解。

桐葉は、確かにそう口にした。

俺はこみ上げてくる思いを、どうすることもできない。

視界がぼやけ、桐葉の顔がよく見えなくなった。

【孝平】「ったく」

【孝平】「返事するのがいつも遅いんだよ、お前は」

【桐葉】「……」

かすかに浮かんだ笑顔。

俺だけに向けられた、笑顔。

その言葉を俺に伝えるために、どんな道のりを歩いてきたんだろう。

どんな決断を、自分に下したのだろう。

どんな痛みを、伴ったのだろう。

【孝平】「桐葉……っ」

俺は、桐葉を抱きしめた。

思い出ごと、桐葉を抱きしめた。

俺に出会ってくれて、ありがとう。

俺を好きになってくれて、ありがとう。

俺を覚えていてくれて、ありがとう。

桐葉が目覚めたら。

たくさんのありがとうを伝えるんだ。

ありがとう。

俺と一緒に生きてくれて、ありがとう──

//ED//