【陽菜】「孝平くん」
夜。
廊下を歩いていると陽菜が話しかけてきた。
【孝平】「おう、陽菜」
【陽菜】「お姉ちゃん見なかった?」
【孝平】「かなでさん?」
【孝平】「そういや、今日はまだ見てないな」
【陽菜】「そっか。困ったなあ」
【孝平】「携帯に電話した?」
【陽菜】「うん。でも出ないんだよね」
【陽菜】「もし見かけたら、連絡してって言ってもらえるかな?」
【孝平】「了解」
【陽菜】「ありがとう」
陽菜は女子フロアの方へと向かう。
かなでさんに何か大事な用事があるようだ。
暇つぶしがてら、捜してみるか。
俺は踵を返し、談話室へと向かった。
談話室に入ると、司がテレビを観ていた。
【孝平】「ういーす」
【司】「ういっす」
【孝平】「かなでさん見なかったか?」
【司】「いや」
【孝平】「ふうん」
【孝平】「今、何観てんだ?」
【司】「春一番ドラマスペシャル」
【孝平】「ほー」
真剣な目つきだ。
特に興味のない俺は、早々に立ち去ることにした。
……いない。
ここにもいない。
どこにもいない。
いったい、どこに行ってしまったのだろう?
……。
俺はふと、廊下の窓から中庭を見た。
【かなで】「すくすくのび~ろおまえさん~♪」
【かなで】「わたしの元気をくれてやるったらくれてやる~♪」
【孝平】「なんですか、その歌は」
【かなで】「うわっ!」
中庭に出て声をかけると、かなでさんは仰天した様子で俺を見た。
【かなで】「び、びびび、びっくりしたぁー!」
【かなで】「いきなり声かけないでよもうー」
そんなこと言われても、困る。
【孝平】「じゃあこれから声かける時は、『今から声かけますね』って宣言してからにします」
【かなで】「うむ。そうしてくれたまえ」
いや、おかしいからそれ。
って、そんなことはいいとして。
【孝平】「陽菜が捜してましたよ?」
【孝平】「携帯もつながらないって」
【かなで】「あっ!」
かなでさんは慌ててポケットから携帯を取り出した。
【かなで】「しまった、ぜんぜん気づかなかったよ」
【孝平】「なんか大事な用事があったみたいでしたけど」
【かなで】「そーなのそーなの」
【かなで】「『湯けむりバナナケーキ殺人事件』、二時間スペシャル!」
【孝平】「はい?」
【かなで】「春一番ドラマアワー、知らないの?」
【孝平】「……」
そんなものは1ミリも知らない。
司が見てたのは、春一番ドラマスペシャルだしな。
【かなで】「ひなちゃんと一緒に観る約束してたんだ」
【かなで】「とりあえずメール打っとこ」
陽菜の用事ってのは、それか。
まあいいけども。
【孝平】「ところでかなでさん、そこで何してたんですか?」
【かなで】「ん?」
【かなで】「見ての通り、ケヤキにお水あげてるんだよ」
夜だというのに、じょうろで木の根元に水をかけている。
中庭にそびえる、「穂坂ケヤキ」と呼ばれる大きな木。
この寮の、シンボルマークのような存在でもあった。
【孝平】「ケヤキって、水あげないといけないんですか?」
【かなで】「ううん、そんなこともないんだけどね」
【かなで】「ケヤキは乾燥に強い木だし」
ちょっと寂しそうな顔で、かなでさんは続ける。
【かなで】「ただ、ここ最近雨降ってなかったでしょ?」
【かなで】「ちょっと元気なさそうだから、潤いをあげようと思って」
【孝平】「なるほど」
俺はケヤキを見上げた。
とても大きくて立派な木だが、葉っぱが生えていない。
もう春だというのに、元気がなさそうだ。
【孝平】「もう寿命なんですかねえ」
【かなで】「こらっ、めったなこと言わないのっ」
【かなで】「ケヤキって、場合によっちゃ千年でも二千年でも生きるんだから」
【かなで】「それに比べたら、この子なんてまだまだ子供だよ」
ちょっとムキになってかなでさんは言う。
かなり大切にしているようだ。
【かなで】「それにね、この木には言い伝えがあるんだよ。知ってた?」
【孝平】「あー、なんかチラっと耳にしたことが」
言い伝えというか、七不思議というか。
この学校に入学した当初に、誰かから聞いたことがある。
【孝平】「夜中に失恋して自殺した女の霊が現れて、シクシク泣くんでしたっけ?」
【かなで】「ちーがーうーっ!」
かなでさんはぷっくりと頬を膨らませた。
【かなで】「そんなガセネタつかまされるなんて、こーへーもまだまだヒヨっ子だね」
【孝平】「七不思議ネタに、ガセも何もないでしょう」
【かなで】「あのね、これは七不思議じゃないのっ」
【かなで】「この木にお願い事をすると、なんでも叶うんだよ」
【かなで】「特に、恋の願い事♪」
【孝平】「へえー?」
どこの学校にも一つはある、ロマンチックな言い伝えだ。
どちらかというと、女の子が好みそうな話。
でもそんなんで願いが叶ったら、誰も悩まないと思う。
なんて夢のないことは、もちろん口にしない。
【孝平】「で、かなでさんはなんか願い事したんですか?」
【かなで】「わたし?」
【かなで】「それはナイショです」
そうか、ナイショか。
【孝平】「じゃ、聞かないことにしておきます」
【かなで】「あれ? もっとツッコんでくれないの?」
【孝平】「どっちがいいんですか」
【かなで】「うーん、オンナゴコロはフクザツなのだよ。わかる?」
そんなこと言われても。
俺ごときに、オンナゴコロなどわかるはずもなく。
ちゃーちゃちゃちゃーらちゃっ♪
【かなで】「あ、やばっ。ひなちゃんからメールだ」
【かなで】「こーへーも一緒に春一番ドラマアワー観る?」
【孝平】「い、いや、俺は遠慮しときます」
【孝平】「……あ」
【孝平】「そういや、さっき司がテレビ陣取ってましたけど?」
【かなで】「えっ? 何観てた?」
【孝平】「確か、春一番ドラマスペシャルとかなんとか」
【かなで】「むむぅ?」
眉をつり上げ、身を乗り出す。
【かなで】「それはもしや、裏番組の『野菜ソムリエ探偵の事件簿』ではっ!?」
【孝平】「そこまではわかりませんが」
【かなで】「くぅ、やられた!」
【かなで】「へーじのヤツ、寮長であるわたしを出し抜いたなーっ」
むちゃくちゃなことを言っている。
【孝平】「テレビなら部屋にもあるんでしょう?」
【かなで】「談話室の大きいテレビで観るからいいんじゃない」
【孝平】「そりゃまあそうですけど」
とりあえずこの時間は、チャンネル権の熾烈な争奪戦が行われるということだけはわかった。
【かなで】「こーへー、さらばだっ!」
【孝平】「あっ」
かなでさんは、一瞬で目の前から消えた。
まったく、騒がしい人だ。