夜。
俺は大浴場から談話室へと向かっていた。
そのついでに、廊下の窓から中庭を見る。
なんとなく、こうやってケヤキの様子を確認するのが癖になってしまっていた。
相変わらず新芽が生える気配はない。
薄暗いせいか、その佇まいがいつもより寂しげに見えた。
【陽菜】「孝平くん」
【孝平】「おう」
玄関から、陽菜がひょっこりと顔を出す。
【孝平】「今帰ったのか?」
【陽菜】「うん。美化委員の仕事で遅くなっちゃって」
そう言ってから、じっと俺を見る。
ものすごく、見てる。
【孝平】「な、なんだ?」
【陽菜】「……もしかして」
【陽菜】「今から、ケヤキにお願い事するつもりだったのかな?」
【孝平】「なんで俺がっ」
【陽菜】「だって、思いつめた顔でケヤキ見てたから」
【孝平】「いや、あり得ないし」
そう答えると、陽菜は小さく息を吐いた。
【陽菜】「そっか。びっくりした」
【孝平】「俺の方がびっくりだよ」
【陽菜】「あはは、ごめんね」
【陽菜】「孝平くん、そういうのあんまり信じるタイプじゃなさそうだもんね」
俺は深々とうなずいた。
【孝平】「陽菜は信じるタイプか? 言い伝えとかそういうの」
【陽菜】「うーん、私は……」
【陽菜】「完全に信じてるわけじゃないけど、否定はしたくないタイプかな」
【陽菜】「神様にお願いしても、どうにもならないことって確かにあるもの」
意外な返答だった。
【孝平】「実はリアリストなんだな」
【陽菜】「否定してるわけじゃないってば」
【陽菜】「でも、すごくロマンチックな言い伝えだよね」
【陽菜】「鬼に見初められた女の子の魂が、このケヤキに宿って願いを叶えてくれるなんて」
【孝平】「そんな話だったのか?」
【陽菜】「私が聞いたのは、こんな話だったよ」
【孝平】「ふうん」
他にもいろんな説を聞いたけど、この説が一番ロマンチックだ。
しかし、鬼か。
そんなのに見初められたら、実際問題、何かと大変そうだ。
【陽菜】「じゃあ私、部屋戻るね」
【孝平】「ああ。また明日な」
陽菜は手を振ってから、女子フロアへと向かった。
……。
【??】「……じぃ~~~」
【孝平】「?」
ふと、背中に視線を感じた。
【かなで】「じぃ~~~」
振り返ると、柱の影からかなでさんがこっちを見ている。
【孝平】「何やってんですか?」
【かなで】「はっ!?」
【かなで】「な、なんでわたしが見てるってわかったのっ!?」
【孝平】「声に出てるんですよ。じぃ~~~って」
【かなで】「ありゃ、失敗失敗」
かなでさんは、自分のおでこをペチンと叩いた。
【孝平】「相変わらず神出鬼没ですね」
【かなで】「それはこっちの台詞ですー」
【かなで】「わたしの行く先々に、こーへーが待ち構えてるんだよ」
そういう言い方もある。
妙なところでシンクロしているようだ。
【かなで】「それよりキミたち、なかなかいい雰囲気なんじゃないのー?」
【孝平】「はい?」
【かなで】「んもう、いっちょまえにテレちゃってこの子は!」
【孝平】「?」
かなでさんは、肘をグリグリと押しつけてくる。
いったい、なんなんだ。
【孝平】「ところでかなでさんは、どこに行くとこだったんですか?」
【かなで】「私? 談話室だよ」
【孝平】「へえ。奇遇ですね」
【かなで】「えっ? こーへーも談話室に行くんだったの?」
【孝平】「はあ。テレビでも観ようかと」
【かなで】「何観るのっ?」
身を乗り出して聞いてきた。
【孝平】「何って……ニュースとか?」
【かなで】「え~~~」
【かなで】「ニュースはいいから、一緒にドラマ観ようよ」
【かなで】「7時から『どすこい! 横綱刑事』が始まるからさっ」
【孝平】「またヘンなドラマだ」
【かなで】「ヘンとはなによぉー」
【かなで】「『野菜ソムリエ探偵の事件簿』のスピンオフ作品なんだからねっ」
そんなこと自慢されてもな。
俺はあまりドラマ事情に詳しくないから、よくわからない。
【孝平】「正直ぶっちゃけますと、あんまり興味ないんですが」
【かなで】「よし、決まり!」
【かなで】「いざ談話室へ! れっつごー♪」
【孝平】「あっ、ちょっと!」
かなでさんは俺の腕をつかみ、グイグイと引っ張った。
人の話をぜんぜん聞いてないし。
【かなで】「スーツの下に~まわし~を~締めて~♪」
【かなで】「男と~女の~猫だまし~♪」
【孝平】「ぶはっ」
【孝平】「なんですか、そのヘンな歌は」
【かなで】「え? こーへー知らないの?」
【かなで】「横綱刑事の主題歌、『ちょんまげダンディズム』じゃんっ」
【孝平】「知りませんよそんなの」
【かなで】「ひゃー!」
【かなで】「こーへーって、世の中のこと何も知らないんだねえ」
しみじみと同情された。
【かなで】「まーでも、わたしが一話からきちんとストーリーを教えてあげるからさっ」
【かなで】「今日からキミも、横綱刑事マニアだっ!」
【孝平】「いや、別に俺は」
【かなで】「土俵と~いう名の~テリトリ~♪」
……ぜんぜん聞いてないし。
やれやれ、と俺は苦笑した。
かなでさんに会うと、いつもペースを乱されてしまう。
それはそれで、楽しいからいいけど。