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//Continuation from May 24//


【孝平】「あーーーー……」

身体を湯船に沈める。

芯まで冷えた身体が末端から温まっていく。

このまま溶けてしまいたいくらい気持ちいい。

と、

湯船の反対側から誰か近づいてきた。

【孝平】「刺青がある方の入浴はご遠慮いただいております」

【司】「そう言うな」

【司】「目立つサイズじゃない」

【孝平】「あるのかよ」

【司】「ない」

ニッと笑って、司が隣に並ぶ。

【司】「結局、落としたな」

【孝平】「なんの話だ」

【司】「噂になってたぞ」

【司】「二人で帰ってきただろ」

【司】「お前の制服着せて」

【孝平】「ああ……」

鼻先まで湯船に沈む。

端から見たらそうなるか。

実際、雨の中で抱き合ってたわけだし、キスもした。

ただ……、

そういうことをした実感はまったくない。

くっついたというよりは、ぶつかったって感じだ。

それに、帰り道はほとんど無言。

付き合うとも付き合わないとも言ってない。

【孝平】「よくわからん」

司のつま先が水面から出た。

【司】「まともな告白してなさそうだな」

【孝平】「なんでそう思う」

【司】「今日は霧雨だった」

【司】「長いあいだ外にいなきゃ、濡れ鼠にはならんさ」

言われてみりゃそうか。

【孝平】「まともも何も、告白すらしてない」

【司】「そうか」

【司】「ま、焦らずにな」

司が立ち上がる。

【孝平】「ああ」

【司】「んじゃ」

じゃぶじゃぶと湯船から出ていった。

どうやら噂になってることを教えに来てくれたらしい。

【孝平】「ぶくぶく……」

再び鼻まで沈む。

しかし、微妙な関係になったものだ。

見たところ、副会長もまんざらではないようだが。

なぜか、きちんとした形で告白したいという気持ちは強くなかった。

ぼんやりと、噴水での話を思い出してみる。

【孝平】「……」

単に付き合ってくれと言っていないだけで、ほとんど告白に近いことも言ったな。

なかなか恥ずかしい男だ、俺。

でも、あのとき感じ、口にしたことが結局は本当なのだと思う。

その証拠に後悔はない。

なら、これからも気持ちの命じるままに動いていこう。

まだ時間はあるのだ。

入浴後。

部屋に向かっていたところで、ばったり副会長に出会った。

【孝平】「お」

【瑛里華】「あ……支倉くん」

安堵したような笑みを浮かべる副会長。

【瑛里華】「お風呂?」

【孝平】「ああ、じっくり温まってきたよ」

【孝平】「そうだ、茶でも飲んでいかないか?」

【瑛里華】「……そうね」

少し考えて副会長が答えた。

【孝平】「どうぞ」

【瑛里華】「お邪魔します」

副会長を部屋に招き入れ、俺は濡れたタオルを片づける。

机の携帯に目をやると、ダイオードが着信のあったことを知らせている。

【孝平】「電話があったみたいだ」

【瑛里華】「あ、それ、私」

【孝平】「そうだったのか」

【孝平】「悪かったな、出れなくて」

携帯を開くと、確かに着信履歴は副会長のものだった。

しかも3回、10分おきにだ。

【孝平】「緊急の話?」

【瑛里華】「そういうわけじゃないんだけど」

正座していた脚を崩す副会長。

答えにくいようなので、茶道具を広げながら彼女の言葉を待つ。

【瑛里華】「ほら、言ったでしょ……不安のこと」

俺と離れると不安になるんだっけ……。

それも、冷たく暗い不安。

【孝平】「……」

10分おきに3回という着信履歴が示していたのは、そういうことか。

辛かったんだろうな。

とすれば、階段での遭遇も偶然ではないのかもしれない。

出会った瞬間の、安堵したような表情ともつながる。

人に会いたいと思われるのは嬉しいことだが、副会長の状態を想像すると簡単には喜べない。

【孝平】「今はもう、大丈夫なのか?」

【瑛里華】「ええ、落ち着いたわ」

【孝平】「そうか」

【瑛里華】「でも、これからが心配」

【孝平】「不安のこと?」

淹れたお茶を副会長に渡す。

【瑛里華】「ええ」

ティーカップを受けとった副会長が、ふーふー冷ましながら口をつける。

【瑛里華】「おいしい」

【孝平】「よかった」

【孝平】「で、何が心配?」

【瑛里華】「不安がだんだん強くなっているっていうのは話したわよね」

【孝平】「ああ」

【瑛里華】「もし、特定の人と親しくなるほどに不安が強くなるのだとしたら……」

言いかけてとめる。

目が合う。

副会長が、慌てて目を逸らす。

【瑛里華】「し、親しいっていうのは学術的な意味よ」

【孝平】「あ、ああ、学術的にね」

キスしておいてなんだが、やっぱりテレる。

【瑛里華】「ともかく、このままだと困るわ」

【孝平】「不安になったら、ここに来ればいい」

【瑛里華】「迷惑になるでしょ」

【孝平】「俺は構わないよ」

【孝平】「だいたい、副会長が辛い思いしてるのに何もできない方が辛い」

【孝平】「いつでも電話してくれよ、夜中だって構わない」

【瑛里華】「支倉くん……」

切なげな視線を送られる。

【瑛里華】「でも、不安の後には血が欲しくなるのよ」

【瑛里華】「我慢できなくなるリスクも増えるわ」

そのときはそのとき、だと思う。

だが、口にしたら怒られるのは確実だ。

【孝平】「俺の部屋に来るときは、輸血用血液を持ってきたらどうだ?」

【瑛里華】「そうね。他に誰もいないときはそうするわ」

【瑛里華】「でも、もし私が正気を失うようなことがあったら、そのときは殴ってでも止めて」

【孝平】「正気を失うことなんてあるのか?」

【瑛里華】「わからないわ。だからもしもの話よ」

【孝平】「そうならないことを祈る」

副会長がうなずいた。

【瑛里華】「今だから言うけど、支倉くんの血はとても魅力的なの」

【孝平】「え……」

魅力的って……なんだそれ?

【孝平】「初耳だけど、どういうことだ?」

【瑛里華】「おいしそうってこと」

喜んでいいのやら、悲しんでいいのやら。

【孝平】「吸わなくてもわかるのか? うまそうとかまずそうとか」

【瑛里華】「私にはわからないわ、血を吸ったことがないから」

【孝平】「話がおかしいだろ、それ」

【瑛里華】「理由ははっきりしないんだけど……」

【瑛里華】「ただ、出会った瞬間に感じたのよ、この人の血は絶対おいしいって」

初めて出会ったときのことを思い出す。

握手しようとした瞬間、副会長の態度が変わった。

【孝平】「じゃあ、初対面のときは……」

【瑛里華】「そうよ」

【瑛里華】「私も初めての感覚だったからびっくりしたわ」

【孝平】「こっちはトラウマになりかけたけどな」

【瑛里華】「ごめんなさい」

苦笑いを浮かべる副会長。

【孝平】「体調がどうこうって言ってたのは嘘だったのか」

【瑛里華】「吸血鬼だって打ち明けてない人に、ちゃんと説明できないでしょ」

【瑛里華】「なんとか納得してもらえる理由を考えるの大変だったんだから」

【孝平】「たしかに、いきなり血の話をされてもな」

【瑛里華】「それにね、私はあまり生徒会に関心を持って欲しくなかったのよ」

【瑛里華】「血がおいしそうな人が近くにいたら、その人に迷惑かけるかもしれないから」

【孝平】「強引に引っ張られた気がするんだが」

【瑛里華】「兄さんでしょ、無理やり引っ張ったのは」

【瑛里華】「私が支倉くんのことを話したから」

【孝平】「面白がって俺を入れたのか」

【瑛里華】「それもあるけど、本当のところは謎ね」

【瑛里華】「私が血を吸うのを期待したのかもしれないし」

【孝平】「会長も副会長に血を吸わせたいのか」

【瑛里華】「わからないわね、兄さんの考えてることは」

【瑛里華】「あの人と同じようなことを言ったり、私の味方をしてくれたり」

【瑛里華】「もしかしたら、一番わからない人なのかもしれない」

【孝平】「たしかに、会長は謎だ」

前に聞いた話だと、会長の年齢は、人間なら長寿新記録になるほどらしい。

少なくとも百歳は軽く超えてるわけだ。

どんな人生を送ってきたのか……想像もつかない。

【孝平】「そういえば、副会長って会長の他に兄弟いるのか」

【瑛里華】「いないわね」

【孝平】「ときどき言ってる、あの人っていうのは親父さん?」

【瑛里華】「母親ね。うちに父親はいないから」

【孝平】「そっか。まずいこと聞いたな」

【瑛里華】「気にしなくていいわ」

【瑛里華】「支倉くんが想像しているような話じゃないと思うから」

副会長の口調は、妙にさっぱりしていた。

【瑛里華】「ずっと言わなかったけど、千堂家はそもそも血のつながりがないのよ」

【孝平】「!?」

【孝平】「じ、事情を……聞いていいか?」

【瑛里華】「これを聞いたら、さすがの支倉くんも私たちをバケモノだと思うでしょうね」

自嘲気味に笑う。

【瑛里華】「知りたい?」

吸血鬼に関することに、いまさら耳を塞いでも仕方がない。

副会長が館に帰らなくてもよくなるヒントが隠されているかもしれないし。

【孝平】「聞かせてくれ」

俺の言葉を受け、副会長は少し寂しそうな顔をした。

【瑛里華】「私たちは、人間と同じ方法で増えるわけではないの」

【瑛里華】「ある日突然、東儀家にぽっこり生まれるらしいわ。突然変異みたいなものかしら」

【孝平】「東儀家に?」

こんなところで東儀の名前が出てくるなんて思わなかった。

【瑛里華】「正確には、いくつかある分家まで含めた東儀一族みたいだけど」

【孝平】「じゃあ、会長も副会長も元は東儀家の人なんだな」

【瑛里華】「ええ。といっても生まれてすぐに千堂家に入れられたみたいで、何も覚えていないけど」

【孝平】「そうだったのか……」

出たのは、ため息。

理解するとかしないとかの話じゃない。

副会長の言葉通りに受け止めるしかないだろう。

【孝平】「吸血鬼は、子供を作ることができないのか?」

【瑛里華】「そのようね」

【瑛里華】「寿命がないのは、その代償なのかもしれないわね。数が増えすぎたら困るでしょう」

愉快げに言う副会長だが、目は笑っていなかった。

【孝平】「突然変異の原因は?」

【瑛里華】「不明よ」

肩をすくめる副会長。

【孝平】「東儀家ってのは特殊な家なのか?」

【瑛里華】「江戸時代から続く名主の家柄よ」

【瑛里華】「今でも島の重要なポストはほとんど東儀家の関係者で占められているはずだわ」

【瑛里華】「そんな家に、人の血を吸う人間が生まれたとわかったら都合が悪いでしょ」

【瑛里華】「だから、千堂家という家を立ててまとめてあるのよ」

【孝平】「恨んだりしてるのか、東儀家を」

【瑛里華】「特殊な感情はあまりないわね」

【瑛里華】「さっきも言った通り、東儀家の記憶は何もないから」

【瑛里華】「それに、目に見えないところで千堂家の面倒見てくれてるみたいだし」

持ちつ持たれつの関係か。

東儀家からしてみれば、罪滅ぼしみたいなところもあるのかもしれない。

【孝平】「しかし……驚いたな」

【瑛里華】「バケモノだったでしょ?」

【孝平】「そういう言い方するなって」

【孝平】「俺は今までと何も変わらないさ」

【瑛里華】「ありがと」

【孝平】「むしろ近づいた気がするよ」

【孝平】「人間と吸血鬼は、まるっきり別の生き物じゃないわけだろ」

【瑛里華】「そう言えるかもしれないわね」

【孝平】「それに、もし生まれる理由がわかったら、いいことだってあるかもしれない」

【瑛里華】「ええ」

そう答えた副会長だったが、あまり期待はしていないといった風だった。

【瑛里華】「話は戻るけど、そういうわけで千堂家の家族構成は普通じゃないの」

【孝平】「とりあえず話は理解した」

一息つくため、冷めた紅茶を飲む。

吸血鬼は本当に謎ばかりだ。

どうして生まれたのかもわからず、身体のこともわからない。

どれほどの不安を抱えて、副会長は生きているのだろう。

【瑛里華】「暗い話になっちゃったわね」

【孝平】「構わないさ」

【孝平】「そう言えば、司に聞いたんだけど、俺たちのこと噂になってるみたいだぞ」

【瑛里華】「どんな風に?」

【孝平】「付き合ってるって」

【瑛里華】「え……そ、そうなの?」

そわそわした仕草で、副会長が髪を撫でつける。

【孝平】「今日帰ってくるとき、俺の制服着てたから」

【瑛里華】「そうだったわね」

【瑛里華】「迷惑?」

【孝平】「まさか」

【孝平】「むしろ、噂で終わらせたくないと思ってる」

副会長が俺の目を見た。

瞳には、わずかな驚きと戸惑いが浮かんでいた。

【瑛里華】「卒業したら館に戻るのよ、私は」

【孝平】「わかってる」

【孝平】「ただ、その理由で副会長への気持ちをなかったことにしたら、俺は一生悔やむと思う」

【瑛里華】「支倉くん……」

【孝平】「副会長はどう思ってるんだ?」

【瑛里華】「私は……」

【瑛里華】「どうしたって迷惑をかけすぎる」

副会長はそう言ったきり黙り込んだ。

俺は副会長の隣へ座り、その手を握る。

【孝平】「返事はしなくてもいい」

【孝平】「俺と付き合えないなら、手を振りほどいてくれ」

【瑛里華】「え」

【孝平】「制限時間は10秒だ」

【瑛里華】「そ、そんな……」

時計を見つめる。

秒針が進む。

あと5秒。

【孝平】「さあ」

残り2秒。

…………。

……。

副会長を優しく抱きしめる。


観念したように、副会長の身体から力が抜けた。

【瑛里華】「ずるいわ……こんなやり方」

【孝平】「今から振りほどいてくれてもいいぞ」

【瑛里華】「バカ……」

【孝平】「利口すぎて悩むのも損だろ」

【瑛里華】「もういいわ、しゃべらないで」

つないでいた手をほどき、副会長の背中に回す。

彼女の熱が身体にしみこんできた。

この温かさを手放さないためにも、俺は抗い続けなくてはならない。

たとえ副会長の母親がどんな人であったとしても――

吸血鬼がどんな存在であったとしても――

解決の道があると信じて、進んでいこう。


//May 26//

放課後。

フルメンバーがそろった監督生室には、いつになく緊張した空気が流れていた。

【瑛里華】「どうして、支倉くんまであの人に会わなくちゃいけないのよ?」

【伊織】「そういう希望だ」

今夜は、紅瀬さんが副会長のお母さんと面会することになっている。

そこに俺も同席せよというのだ。

【瑛里華】「何かあったらどうするのよ」

【孝平】「ヤバいことでもあるのか?」

【瑛里華】「大ありよ」

【瑛里華】「最悪、命に関わるかもしれないわ」

【孝平】「まさか」

【伊織】「それが冗談じゃないんだ」

【伊織】「あの人は人間をエサとしか思っていない。簡単に人を殺すよ」

そう言われても、さすがに実感が湧かない。

なんで、会うだけで殺されなくちゃならないんだ。

【瑛里華】「私も行くわ」

【伊織】「瑛里華は呼ばれていない」

【伊織】「機嫌を損ねたら、それこそどうなるかわからないだろ」

【征一郎】「支倉は会いたいのか?」

じっと話を聞いていた東儀先輩が口を開く。

【孝平】「……」

聞く限り相当危険な人だ。

だが……。

【孝平】「会ってみたいです」

【瑛里華】「支倉くんっ」

【孝平】「自由になりたいと思ってるなら、いつかは説得しなきゃいけない人だろ?」

【瑛里華】「それはそうだけど、説得が通じるような人じゃないのよ」

【孝平】「なんにせよ、会ってみて損はないさ」

【孝平】「つーか、俺が会ってみたいんだ。どんな人なのか」

【瑛里華】「本当に何があるかわからないの」

【征一郎】「俺が付き添おう」

【瑛里華】「征一郎さんが?」

【征一郎】「俺ならば、そう邪険にもされないだろう」

【孝平】「東儀先輩は、お母さんと親しいんですか?」

【征一郎】「多少な」

【征一郎】「少なくとも、初めからけんか腰ではない」

そう言って、会長を見る。

会長は知らぬふりで窓の外を見ている。

【征一郎】「どうだ、瑛里華?」

少しの間、副会長は目をつむる。

【瑛里華】「仕方ないわね」

【瑛里華】「た だ し」

【瑛里華】「絶対にあの人の機嫌を損ねるようなことは言わないで」

【孝平】「わかった」

【征一郎】「紅瀬」

東儀先輩が紅瀬さんを見る。

我関せずといった調子で、黙々と書類整理をしていた。

【征一郎】「そういうことだが、かまわないか?」

【桐葉】「かまわないわ」

書類から目を離さずに言った。

ヤバイ人に会いに行くのは紅瀬さんも同じはずだが、まったく慌てたところがない。

【瑛里華】「貴女の主かもしれない人に会いに行くのよ。緊張したりしないの?」

【桐葉】「緊張しても何も変わらないもの」

【瑛里華】「はぁ、かわいげがないわね」

【白】「あ、あの……」

ずっと黙っていた白ちゃんが小さく挙手する。

【白】「わたしもご一緒してよろしいですか?」

【征一郎】「だめだ」

即答。

【白】「うう」

しゅんとする白ちゃん。

【孝平】「白ちゃんは、副会長のお母さんに会ったことあるの?」

【白】「はい、伽耶様には何度かお目にかかっています」

かや。

副会長のお母さんの名前か。

しかし、様付けで呼ぶってのはどういうことだ?

【孝平】「やっぱり怖い人?」

【白】「変わった方だとは思いますが……」

【白】「あ、紅瀬先輩に似ていらっしゃるかもしれません」

そりゃ変わってる人だ。

【征一郎】「会えばわかるだろう」

【征一郎】「伊織、面会の時間は決まっているのか?」

【伊織】「いや、いつでもかまわんとさ」

【征一郎】「では、遅い時間の方がいいな」

東儀先輩が少し考える。

【征一郎】「支倉、紅瀬、出発は8時としよう。外出許可は俺が取っておく」

【孝平】「よろしくお願いします」

紅瀬さんもうなずいた。

午後7時56分。

出発の時間が近づいた。

既に今日の仕事を終えた紅瀬さんは、ここ1時間ばかり窓の外を眺め続けている。

【征一郎】「そろそろ時間だな」

パソコンに向かっていた東儀先輩が口を開く。

【征一郎】「仕事の切りがいいようなら、そろそろ出発しよう」

【孝平】「俺は大丈夫です」

【桐葉】「こちらも」

【征一郎】「では、準備をしてくれ」

俺は、手元に広げていた書類をまとめる。

【瑛里華】「気を付けてね」

【瑛里華】「何を言われても、食ってかかったりしたらダメよ」

【孝平】「伽耶さんもただ顔を見たいだけらしいし、変なことにはならないだろう」

【瑛里華】「そうだと、いいんだけど……」

【伊織】「あの人の機嫌は、秋の空よりはるかに変わりやすいからね」

【伊織】「気を付けるに越したことはないよ」

血のつながりはないとはいえ、家族にここまで言われるなんて。

いったい、伽耶さんってのはどんな人なんだろう。

【瑛里華】「ともかく、何かあったら電話するのよ」

【孝平】「そんなに心配するな」

【孝平】「東儀先輩も一緒に来てくれるんだし」

【瑛里華】「そうだけど……」

【瑛里華】「ほんとよろしくね、征一郎さん」

【征一郎】「任せておけ」

副会長は心配で心配で仕方がないといった様子だ。

【瑛里華】「それから紅瀬さん」

【桐葉】「なに?」

【瑛里華】「母様が主だったとしたら、貴女も注意しなくちゃだめだからね」

【桐葉】「何に注意するの?」

【瑛里華】「何があるかわからないの」

【桐葉】「それでは、注意しようがないわ」

【瑛里華】「いいから、注意なさい」

やれやれといった調子で肩をすくめる紅瀬さん。

【征一郎】「もう準備はいいか、支倉」

【孝平】「あ、はい」

【征一郎】「では、行こう」

鞄を持って立ち上がり、部屋を出る。

ドアで顔が見えなくなる瞬間まで、副会長の顔から不安は消えなかった。

校門からしばらく歩き、俺たちは森の中へ入った。

月は厚い雲に覆われ、荒れた山道は漆黒へと吸い込まれている。

こんなところに家があるのだろうか?

【征一郎】「支倉」

東儀先輩が突然口を開く。

【孝平】「あ、はい」

【征一郎】「伽耶様に対する、伊織や瑛里華の態度をどう思う」

【孝平】「二人とも伽耶さんが好きじゃないようですね」

【征一郎】「恨んでいると言ってもいいだろうな」

【孝平】「聞いた限りだと、伽耶さんの言動に問題があるようにしか思えませんでしたけど」

【征一郎】「そうだな……」

独り言のようにつぶやく。

【孝平】「東儀先輩は、伽耶さんが悪くないと思ってるんですか?」

【征一郎】「そうは言わない」

それっきり、東儀先輩は黙ってしまった。

何か俺に言いたいことがあったのだろうか。

山道を歩き続け、ようやく目的地に到着した。

歴史の教科書に出てきそうな洋館だ。

壁面が月明かりに照らされ、ほの明るく光っている。

【孝平】「電気ついてないですけど」

【征一郎】「奥の建物にいらっしゃるはずだ」

そう言って、俺たちを先導する。

【桐葉】「陰気な建物ね」

【孝平】「ああ」

古びてはいるが汚いわけじゃない。

庭もそこそこ手入れされている。

だがなぜか、人が楽しく生活している状況が想像できなかった。

こんなところに、副会長を閉じこめたくはない。

建物の脇を通り抜けて裏手に回る。

そこには、和風の建物があった。

温泉地の高級和風旅館のようなたたずまいだが、漂う緊張感は旅館とはほど遠い。

【征一郎】「ここだ」

東儀先輩はためらうことなく戸を開ける。

【征一郎】「征一郎です、紅瀬と支倉を連れてきました」

廊下の奥から声がした。

若い女性の声だ。

【桐葉】「……」

【征一郎】「行こう」

【孝平】「はい」

玄関で靴を脱ぎ、ひんやりとした板敷きの廊下を進んでいく。

そこは広い和室だった。

お香を焚いているのか、甘い香りが漂っている。

【伽耶】「お座り」

部屋を仕切る御簾の奥から声がした。

奥のほうがこちらより暗いせいで、姿はほとんど見えない。

人と会うのに御簾を下ろしたままなんて、平安時代の貴族みたいだ。

【征一郎】「失礼します」

東儀先輩が座ったのを見て、俺と紅瀬さんも正座する。

【伽耶】「なぜお前が来た」

【征一郎】「伊織の都合がつきませんでしたので」

【伽耶】「……ふん、まあいい」

ぱちりと何かを叩くような音がした。

【伽耶】「お前が支倉だな」

突然話しかけられた。

【孝平】「はい」

【伽耶】「瑛里華から話は聞いておろうの」

【孝平】「どういった話ですか?」

【伽耶】「お前、瑛里華の眷属になるつもりはあるのか?」

単刀直入に聞かれた。

もちろん、眷属になる気はない。

と、口を開きかけたとき……

【征一郎】「伽耶様、支倉はその件について聞かされておりません」

【伽耶】「征一郎には聞いておらぬ」

【征一郎】「失礼しました」

東儀先輩が頭を下げた。

【伽耶】「して、どうなのだ?」

再び水を向けられる。

監督生室で眷属の説明があったとき、俺も東儀先輩もそこにいた。

つまり、東儀先輩は嘘をついたことになる。

その目的はやはり、伽耶さんの機嫌を損ねないことだろう。

なら……

【孝平】「眷属というのは、なんですか?」

【伽耶】「知らぬのか」

【孝平】「はい」

【孝平】「あの……俺、何かされるんですか?」

【伽耶】「……」

【孝平】「教えてください」

【伽耶】「征一郎、どういうことだ」

【征一郎】「瑛里華にも考えがあるようで、慎重に行動しております」

【伽耶】「あの出来損ないめ」

忌々しげな声が聞こえる。

人前で、自分の家族を出来損ない呼ばわり。

聞いていた通り、なかなかぶっ飛んでる。

だいたい、今夜の主目的は紅瀬さんと伽耶さんの面会だったはずだ。

俺から話を始めるあたりからして、紅瀬さんをないがしろにしている。

ちらりと隣の紅瀬さんに目をやる。

彼女は、微動だにせずに御簾の奥を見つめていた。

【伽耶】「瑛里華には急ぐよう伝えよ」

【伽耶】「さもなくば、こちらにも考えがある」

【征一郎】「わかりました」

【伽耶】「ときに……」

御簾の奥から衣擦れの音が聞こえた。

姿勢を崩したようだ。

【伽耶】「征一郎、御簾を上げよ」

【征一郎】「はい」

東儀先輩が立ち上がり、御簾に近づく。

どうやら、伽耶さんの顔を拝めるようだ。

……。

するすると御簾が上げられていく。

【孝平】「……」

現れた彼女の姿に、一瞬言葉を失う。

御簾の奥に座っていたのは少女だった。

脇息に肘を載せ、じっと紅瀬さんを見つめている。

その表情には薄い笑いが張りついていた。

【桐葉】「……」

紅瀬さんはじっと伽耶さんを見つめている。

二人とも口を開かない。

重い時間がじりじりと流れていく。

【桐葉】「……」

何事かつぶやいたかと思うと、紅瀬さんが立ち上がる。

そのまま、つかつかと伽耶さんに歩み寄った。

【孝平】「紅瀬さんっ」

ぱしっ。

軽い音が部屋に響く。

紅瀬さんが伽耶さんの頬を打ったようだ。

薄笑いを浮かべたままの伽耶さんの口元から、一筋血が流れた。

【伽耶】「手癖の悪い女だ」

【桐葉】「伽耶」

【伽耶】「征一郎、血を」

【征一郎】「はい」

東儀先輩がポケットからハンカチを取り出し、伽耶さんの口元をぬぐう。

そんな光景を、紅瀬さんは立ったまま見下ろしている。

やがて、東儀先輩が伽耶さんの元から離れた。

【桐葉】「そんな若い子をかしずかせて、貴女会うたびにゆがんでいくわね」

伽耶さんの顔から表情が消えるが、すぐにまた人を見下したような薄笑いが浮かぶ。

【伽耶】「主への口のきき方まで忘れたか」

【桐葉】「主がまっとうなら、私もこんなことは言わないわ」

今までの紅瀬さんにはなかった、感情のこもった声だ。

【伽耶】「元の位置に戻れ桐葉」

【桐葉】「断るわ」

【伽耶】「命令だ」

その瞬間、紅瀬さんの身体が硬直した。

そして、俺の隣へと歩き始める。

これが主の命令ってヤツか。

紅瀬さんは、機械みたいな正確さで俺の隣まで歩いてきて止まった。

【伽耶】「桐葉」

伽耶さんが紅瀬さんを見つめる。

【伽耶】「結局、顔を見るまで思い出さなかったか」

【伽耶】「……嘘つきめ」

【桐葉】「試し続けることでしか安心できないのね」

伽耶さんの口の端が吊り上がる。

【伽耶】「お前には罰を与えよう」

紅瀬さんが、キッと伽耶さんをにらんだ。

【伽耶】「礼拝堂にいる、天池を襲え」

【孝平】「!?」

【征一郎】「伽耶様っ!?」

なんでここでシスターの名前が?

【桐葉】「馬鹿なことを……」

【伽耶】「命令だ」

【桐葉】「くっ」

苦しげに顔をゆがめる。

【伽耶】「急げ、今すぐにだ」

紅瀬さんが、弾丸のように部屋を飛び出した。

これって……

【孝平】「マズいだろっ」

立ち上がる。

紅瀬さんの足音は、既に聞こえない。

【征一郎】「伽耶様、なんということをっ」

【伽耶】「伊織には礼をしなくてはなるまい」

俺はとっさに部屋を飛び出す。

【伽耶】「はははは、こういう鬼ごっこもたまにはいいだろう」

【伽耶】「ははははっ、あはははははっ」

背後から、さも愉快そうな笑い声が聞こえた。